ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
虐待越えて

アカンもんはアカン
真っ暗なトンネル出た

島田 妙子


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 「虐待してるでしょ。親であってもアカンもんはアカン」

 中学2年生の時、担任だった27歳の女性教師の一言で7年間の長い虐待生活が一瞬で終わりました。産休明けの、赤ちゃんがいるお母さん先生でした。

 私も兄たちも当時はガリガリの栄養失調で、誰が見ても普通の子どもではなかったと思います。中学へ入った頃から暴力に加減がなくなりました。それまでは「ここまでしたらアカン」という事を自覚していた父も継母も、自暴自棄になっていたのか、私たちの身体は、明らかに見える部分もアザだらけになっていました。

 すぐ上の小兄は虐待が始まった頃から重度の小児喘息(ぜんそく)を患い、一度発作が出ると病院に行って処置をしてもらわないと治まらなくなっていました。喘息の発作が出ているのに裸でベランダへ出されたりする姿を見ていると、心臓が痛くなって涙が溢れました。自分が殴られたり、酷い目にあわされたりしている時って、自分の姿が見えないから必死なだけだけど。人が…まして大好きな兄が酷い目にあっている姿を見るのは何よりも辛かった。

 喘息の発作が出ていても新聞を配達する小兄の姿を見て、私も当時朝刊だけを手伝っていたので、小兄から新聞を取り上げ、「中学卒業まであと2年、もう少しの辛抱や」と唇を噛み締め配りました。

 そんな中学2年の新学期になった矢先に担任の先生の「アカンもんはアカン」というこのたった一言で、私たちの長年固まっていた体中の血液が再び流れ始めた…そんな感覚でした。長かった真っ暗なトンネルから出る事ができたのだ。

 これまでトンネルの途中にある非常出口から何度も出ようとしたけれど、鍵がかかって出られなかった。きっぱりと言うたった一人の大人に助けてもらったのです。トンネルの出口の光が見えたのではなく、まるで山ごと真っ二つに割れて上からつまみ上げてもらったそんな感じでした。虐待というトンネルから抜け出ることができた。

 私はその後、この学校を転校することになり、義務教育が終わるまで児童養護施設でお世話になりました。当初は、あまりに長い期間の暴力や暴言が呪縛のようになって、今一体どこで寝ているのか夢にうなされる事もありました。

 しかし、不思議なもので毎日暴力に脅(おび)える事なく眠れる事、普通にご飯を食べられる事、そして普通の子のように学校へ通える事に、心から安心感を持てるようになり、当たり前の事がとても嬉(うれ)しくて、そして楽しくて私の中では虐待を乗り越えたというよりは、戻れない過去を置いてきたという感じでした。

 何よりも、自分の感情を素直に表に出していいという事がこんなに素晴らしい事なんだ、と感じた私でした。


しまだ・たえこ
1972年 神戸市出身。幼少期に継母と実父からの壮絶な虐待により何度も命を落としかけた。現在は関西約130園の学校・幼稚園・保育園のDVD制作会社を経営。本当の意味での「児童虐待の防止」にむけて自叙伝「e love smile〜いい愛の笑顔を〜」を執筆するとともに、「虐待」だけでなく「愛」や「命」をテーマに講演活動を積極的に行っている。また高校生の長女を筆頭に発達障がいの長男を含む3人の子の母でもある。