京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●虐待越えて
お父ちゃんから最後の電話
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長かった虐待生活が終わり、児童養護施設で中学卒業までお世話になりました。「大人なんて信用しない」という感情を持っていた私が、助けてくださった担任の先生との出会いで、ゆったりとした気持ちで毎日暮らせるようになりました。そんな日々は、「周りには沢山素晴らしい人がいる」と感じ、人を信用してみようという気持ちにさせてくれました。きっと私は、真っ黒なサングラスをかけていたのかもしれませんね。
養護施設で暮らし始めて1年半たったある日、父から電話が入りました。長い間、父の普通の声やしゃべり方を聞いていなかったので、びくっとしたけれど、「ほんまに悪かった、大切なお前たちやったのに」と言って父は電話を切りました。私は、『お父ちゃんが元に戻ったんや』と喜んだのもつかの間、この電話から1週間後に父は自殺を図ったのです。パイプの詰まりを溶かす強力な劇薬をお酒と一緒に飲んだのです。
施設の先生に付き添ってもらい急いで父が運ばれた救急病院へ走りました。父は集中治療室でいろんな器具や点滴を沢山つけられ、口は半開きで目も半分開いたままでした。アラーム音があちこちで鳴っていて、私は変わり果てた父を前にただ立ちすくんでいました。勝手に流れてくる涙を拭くこともないまま、何年か振りに父の手を握りました。小さい頃、毎日なでてくれていた父の手。それがいつの間にか、私たちを殴る手に変わりました。父の手はゴツゴツになっていたけれど、温かかった。ちゃんと温もりがある。虐待されていた間、何度も妄想で父を殺していた私は「お父ちゃん死んだらアカン」と祈りました。
祈りも虚しく、8カ月後息を引き取りました。42歳でした。父を幼い頃に捨てて出て行った母親は、自分の息子の亡骸(なきがら)を見ても泣く事もなく、歯医者の予約があるからと帰っていきました。父は中学卒業するまで児童養護施設で育ったのです。
火葬場で父の棺(ひつぎ)がレールに乗せられ、炉の扉がしまる「バタンッ」という音が今も耳から離れません。白い骨つぼに納まった父はとても軽かった。「お父ちゃんの人生って…」。父を本気で愛してくれた人はいたんだろうかと思うと、あれだけ虐待されて憎んでいた父が愛おしくて、そしてかわいそうになりました。死んでほしいと私が願ったから死んでしまったんじゃないかと自分を責めました。
虐待から救われたあの日、私が助かっただけじゃない。そう、父もあの日助かった。7年間も激しい暴力や暴言を続けていた父もあの日を境に暴力をふるわずに済んだから。おそらく父は振り切れていた心のメーターが戻ってくればくるほど「罪悪感」という大きな岩が心に残ったのだと思います。