今まで書いてきたように、いずれも外見からわかりにくい発達障害の特性により、子どものころから「困って」きたわけですが、実はこれらは大人になってもなくなるわけではありません。
大学を卒業した私は、就職氷河期だったこともあり、永久就職の道を選びました。22歳・・・割と早い結婚でした。主人は趣味だったバイクを通じて知り合った人です。私は車やバイクの持つスピード感が大好きでしたので、結婚生活の最初の4年はひたすら2人で日本中を走り続けていました。
しかし結婚生活の中で、私が持つ特性がさらにマイナス方向に傾いたことは否めませんでした。何よりもまず、それまで学校という構造化された枠の中で生きてきて、卒業して数日でその枠が突然消え、漠然とした状態で「主婦・妻」として一日をいったいどうやって暮らせばいいのかわからなくなりました。また、家事を自分で発想してこなす・・・というあたりに苦手さがあり、片付けが苦手とか不器用さもあって、家事の組み立てができず、ぼうぜんと一日を過ごすことも多かったのです。
「お風呂を見てきて」と主人に言われて、ほんとに眺めるだけ眺めて終わったというエピソードもこのころのものです。
おまけに主人の転勤で、生まれ育った神戸を離れて、ほとんど知人もいない東京で新婚生活をスタートしていたので、なおさらどうしたらいいかわからなくなったこともありました。
神戸には結婚して2年後に帰りましたが、悩まされたのは今は亡き姑(しゅうとめ)との関係でした。姑はどちらかと言えばおおらかで社交的で誰とでも親しく関わる性格だったのですが、私はそういう姑とどう関わればいいのかさっぱりわからなかったのです。今にして思えば、姉さん的な性格の人だったので、もっと甘えてうまく立てておつきあいすればよかったのでしょうが、もともと甘え下手でつかみどころのないタイプの私には、ハードルが高すぎました。
それだけでなく、私は地名や名前などの言葉の正確さにこだわったり、あいまいな表現が苦手なので、姑の「おおらかな」会話についていけず、困ったものです。
姑「今日は(孫と)国道55号線まで行ってきたよ」
私「お母さん、それは43号線です」
姑「今日は(孫と)ブルートレインに乗って来たよ」
私「お母さん、それは普通電車です」
主人に「受け流せ」と言われても、その「受け流す」ということができない特性ゆえ、非常に苦痛で苦しみました。
おまけに、思いつきで衝動的に行動することが多い姑は、スケジュールの変更が多く、突然の変更についていけない私にとってはもうお手上げ状態。しかし、周囲からすれば、なんでそんなことくらいで・・・と理解しにくかったと思います。その上に、息子たちもまた、ひどく育てにくく思うようにいかないことだらけで、育児も家事も妻も嫁もうまくこなせず、家庭から逃げるように介護の仕事に行くようになりましたが、その仕事もまた同じような理由でうまくいかず、とうとうウツ状態に陥りました。
ささもり・りえ 1970年、神戸市生まれ。2003年、発達障害の診断を受ける。05年、「NHK障害福祉賞」第1部門優秀賞受賞。
NPO法人特別支援教育ネットワーク「がじゅまる」理事。旧姓の逸見から「へんちゃん」と呼ばれる。著書に「へんちゃんのポジティブライフ」(明石書店)。神戸市在住。