前回、書いたように、私がしつけと思ってしていたことは、単なる体罰でしかありませんでした。感情を子どもにぶつけるだけで終わり、どうしたらいいのかということを具体的に教えることを私はしていなかったのです。
まして、聴覚過敏の強い息子に怒鳴っても、大きな声でおびえるだけで、何がいけなかったのかということが伝わらないのだということもわかりました。翻って思えば、私自身も父親から同じように怒鳴られても、その声におびえるばかりで自分がどうしたらよかったのか、そんなことを考える余裕はなく、ただその嵐が通り過ぎるのを恐怖におびえながら耐えているだけでした。これでは、親子共につらいだけです。
なので、まず、子どもができなかった時、自分の感情を抑えること、なぜ子どもができなかったのかを考えることを心がけました。そして見えたことは、発達障害が持つ独特の特性や感性への共感でした。そうか・・・それは私もそうだった、わかるなあ・・・と、そこで自分に置き換えて考え、ここで責められたら確かにつらいだけで終わるし、そこの部分を責めたら私自身のことも否定することになると思い、「わかった。じゃあ、こうしよう」と提案したり、ひどいパニックもこらえて、何とかクールダウンに持ち込んだり、以前のように短絡的にできないことだけをあげつらって責めたり怒鳴ったりたたいたりしないようになりました。長所をしっかり見ることもできるようになりました。
また、それまで強く持っていた「〜せねばならない」という枠から自分自身が抜け出すことに取り組みました。発達障害の支援とは、常識の枠で物事を考えるほど、難しくさせてしまうことはありません。ちょっとくらい常識の枠から外れても、結果的にできればそれでいいじゃない・・・と思える気持ちが必要でした。
そうやって、次々と考えるうち、子どもとの関係もよくなっていったと思います。
ある日、失敗してへこんでいた私に長男が言ってくれた一言が忘れられません。
「お母さん、大丈夫だよ、そんな日もあるよ」
自分の育児の方向はこれでいいのかも・・・と思える一言でした。以前の鬼のような母だったら、息子はきっとこんなことは言ってくれなかったと思います。ある意味、息子は親を映す鏡と言えるのかもしれません。
長男は3年生で通常学級から支援学級に転籍し、よい先生に恵まれて彼は充実した毎日を送っていました。二男は服薬しながら通常学級で過ごし、このまま長男は地域の中学校に移行できるかな・・・と思っていた6年生の時に、恐れていたことが起こりました。
日常的なイジメの果てに、修学旅行の夜に一晩中、身体的なイジメを受け続け、帰ってきたその日から、急性ストレス障害を起こし、不登校とひどいフラッシュバックとパニックの毎日になりました。
いじめられても仕方がないと思っていた、そんな一言を同級生の子たちから聞いた時、外見でわかりにくい、この障害の難しさを実感したのでした。
ささもり・りえ 1970年、神戸市生まれ。2003年、発達障害の診断を受ける。05年、「NHK障害福祉賞」第1部門優秀賞受賞。
NPO法人特別支援教育ネットワーク「がじゅまる」理事。旧姓の逸見から「へんちゃん」と呼ばれる。著書に「へんちゃんのポジティブライフ」(明石書店)。神戸市在住。