ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
ある日突然、車いす
写真
甲子園で同点ホームランを放ち、飛び上がる清水さん。だがこの1年後にアクシデントが待っていた(1984年、第66回全国高校野球選手権大会)


壮絶な人生の始まり
奇跡からの暗転


清水 哲



 私は小さいころから野球が好きで、将来はプロ野球選手になることを夢見ていました。

 プロ野球選手になるには、とにかく甲子園に出場しないといけないと思っていました。

 そんな私にすごく影響を与えたのが、PL学園が夏の選手権大会で初優勝した時です。

 テレビで見ていて「負ける」と思ったところから、粘りに粘って最後には勝ってしまう。そんな勝ち方を見ていて、子供ながらに「高校はPLに入って甲子園に行くんや!」と心に決めました。

 それがまさか現実のものになるとは私自身思ってもいませんでしたが、夢は実現し、私は高校3年の春と夏に甲子園に出場、春夏とも準優勝でした。

 そこで忘れられない思い出が生まれました。夏の選手権大会の決勝戦、9回裏、3対4で負けている時に放った同点ホームランです。小さいころにあこがれた逆転のPL、奇跡のPLを、まさか私自身が先輩と同じ事ができるなんて夢を見ているようでした。

 それから1年後、私は同志社大学に進学し、いつもの野球をしていました。秋の関西学生リーグの公式戦、私は2番レフトスタメンで出場していました。

 5回裏、2アウトからフォアボールを選んで1塁に出塁しました。次のバッターのカウントが2―1から2塁にスタートを切りました。

 走りながらバッターを見ると見送ったのが見えました。「なぜ、打たないのか?」。そんな事を考えながら滑るタイミングが遅れたのです。「危ない、ぶつかる」と思った時にはもうどうすることもできませんでした。

 次の瞬間、ぶつかった事だけはわかっていました。「これだけぶつかったのだから相手の選手もボールを落としてるかもしれない。とりあえずベースタッチだけはしよう」。そう思って目を開けようと思いましたが、目を開ける暇はありませんでした。

 私が目を開けようと思った瞬間、今までに味わったこともない激痛が首に走りました。この時です。私が地獄に落ちたのは…。

 自分の体でありながら1センチ、1ミリ動かすことができない。自分の身に何が起こったのかわからない。

 そんな状態だったのですぐに担架が運び込まれてきて、それに乗せられて球場の外へと運び出されました。

 しばらくすると救急車が到着しました。それに乗せられ近くの病院でエックス線写真を撮ることになりました。

 写真が出来上がり、先生が「首の骨が折れています。ここでは治療ができませんのでもっと大きな設備の整った病院に移ってもらいます」と言われました。私は人間が首の骨を折ると死ぬと思っていました。私の場合、意識もはっきりとありましたので「大したことはない。指の骨や足の骨を折った時のように骨さえ元通りにくっつけば、また野球ができる」と思っていました。

 その程度の知識しか私にはありませんでした。夢がかなった1年後にはこんな大けがをしてしまいましたが、まだこの時点では、それが壮絶な人生の始まりだということを、私は知るよしもありませんでした。

しみず・てつ氏
1966年生まれ。高校3年の時には、PL学園野球部の1学年後輩、桑田・清原とともに日本高校野球選抜選手に選ばれた。著書に「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」(ごま書房)、「車いすの不死鳥」(主婦と生活社)がある。