ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
ある日突然、車いす
写真
退院の日、みんなに見送られて(前列中央が清水さん)


周囲の支えに励まされ
もう一度生きる決心


清水 哲



 どうすれば一番楽に死ねるか、そればかりを考えていました。薬を飲む事、手首を切る事、首をつる事、高い所から飛び降りる事、いろいろな死に方を考えました。でも、死ぬ事さえもできない自分にただ情けなく、泣く事しかできませんでした。夜中一人で毎日泣いてました。涙が枯れるまで泣きました。泣いて治るのであれば、とっくに治ってるというぐらい泣きました。だけど、いくら泣いても身体の状態は変わりませんでした。

 ある日、このまま泣いていてどうなるのか。俺(おれ)は一生を泣いて過ごすのか…。という事を考えられるようになりました。そんな時に私の目がとまったのが、全国から送られてくる励ましの手紙であり、千羽鶴であり、毎日来てくれるチームメートであり、献身的な看護師さんの姿でもありました。特に、看護師さんにはいろいろと迷惑をかけました。自分では何もできませんので、入院中は看護師さんによってすべてをしてもらわなければいけないのですが、その私がして欲しいというお願いをしていた事を看護師さんが忘れるんです。最初のうちは、私よりも重症患者がたくさん居てますし、看護師さんも人間ですから忘れる事もあると思って我慢していました。でも、そういう事が5回、6回と続くと、苦しい、つらい思いをするのはこの私です。だから、これは体を張ってでもわかってもらわなければいけないと思って、私が取った行動はハンガーストライキでした。両手両足の動かない者ができる事と言えば、すべての事を拒否する。これでしか抵抗できる手段は私には思いつきませんでした。

 飲まず食わずの日が2日続きました。ある看護師さんが仕事前に私の所に来てこう言われました。「清水君、何かきっかけがないと食べられへんやろ」と言って、手作りのお弁当を差し出してくれました。私はのどから手が出るほどそのお弁当が食べたかったのですが「いらない」と断ったのです。なぜかというと私が味わったつらさはたった2日飲まず食わずしたぐらいのつらさなのかと思われるのが嫌でしたので食べませんでした。弁当を作ってきてくれた看護師さんが、仕事を終えられて帰る時に、もう一度私の所に来てこう言われました。「今日のお弁当清水君に食べてもらわなくて良かったわ。おいしくなかったわ…」と言って泣いてました。その涙を見た時、おいしくなかったわと言われたのはうそだとわかりましたし、そこまで俺みたいな奴(やつ)の事を心配してくれていたのかと思うとうれしかったです。なんかその涙は私に間接的に「がんばって生きてほしい」とそう言われてるように思えました。だから、今、自分に何ができるのか、何をしなければならないのかを考えた時にいちかばちかリハビリをしようと思いました。もし、ここで何もしなかったらきっと後悔すると思いました。少なくとも私には小さいころからの夢「プロ野球選手になるんだ」という夢があったはず。だから、しんどい練習にも耐えて、自分なりに努力して、やっとつかんだ甲子園。そういう今までやってきた事すべてがここで何もしなかったらムダになってしまうと思いました。

しみず・てつ氏
1966年生まれ。高校3年の時には、PL学園野球部の1学年後輩、桑田・清原とともに日本高校野球選抜選手に選ばれた。著書に「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」(ごま書房)、「車いすの不死鳥」(主婦と生活社)がある。