ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
ある日突然、車いす


介護者求めてビラ配り
一人暮らしへの挑戦


清 水 哲


 身体に障害を負ってしまった事はどうにもできません。だからといって、人生までもが障害を負うのは嫌でした。

 当時、私のような重度身体障害者が一人暮らしをする事は、常識では考えられませんでした。それなのに、私が一人暮らしを思い立ったのは、まず親に何から何まで世話をしてもらっているという事が申し訳ないという気持ちでいっぱいだからでした。特に、母が下(しも)の世話までやってくれている事は、苦痛以外の何物でもありませんでした。その状況を変えるには、私が家を出るしかないと思っていたのです。

 もうひとつの理由として、以前からすごく不満に思っていた状況を乗り越えたいという気持ちもありました。

 私が一人暮らしを始めたのは29歳の時です。29歳の男が「一人暮らしをしたい」と考えるのは自然な事です。何の問題もない。それなのに、障害者であるという事だけで、できないというのはあまりにも納得できませんでした。

 一人暮らしと言っても何をどうやっていいかもわからない状態でした。
写真
口を使って無心にパソコンを打つ清水さん

 そんな私にチャンスが訪れたのです。チャンスと書くと父に怒られるかも知れませんが、父が脳梗塞(こうそく)になって左半身が動かなくなってしまい、それまで私を介護してくれていた母が今度は父の介護をしなければいけなくなってしまいました。それで、私の介護をやってくれる人がいなくなり「どうして私の周りでだけ、こんな事ばかり起こるのか」と恨めしく思った事もありましたが、マイナス思考を持っていても何も変わらない事は、自分がケガをした時に身にしみていたので、状況を「絶対にプラスにするんだ!」と自分に言い聞かせました。

 そこで私は、知り合いの方に「一人暮らしをしたい」という気持ちを伝えて、実行に移すための相談をしました。その人は、私の気持ちは理解してくれたものの、進め方については私と意見が分かれました。

 私は、住む所を定めるのが先決問題だと考えていました。なぜかというと、どこに住んでいるのかもわからない人の所に介護には行けないだろうと思ったからです。仮に、行ってくれるという話になっても、その行き先が2時間もかかる所だったら何かと不都合な事が多いでしょう。しかし、お互いの家が近ければ、自分の買い物のついでに私の買い物もやってくれるかも知れません。だから、とりあえず、私は住む拠点が必要だと考えていたのです。でも、その人は介護をしてくれる人をボランティアで探すのが先という考えでした。「家があっても介護してくれる人がいなかったら、家にもおられへん、生活がなりたてへん」と言われたのです。

 私は応援してもらっている身ですから、その人の考えをまずは受け入れてボランティアを探す事にし、駅前でボランティア募集のビラを500枚配りました。でも、2件問い合わせがあっただけで、結局1人も見つかりませんでした。

しみず・てつ氏
1966年生まれ。高校3年の時には、PL学園野球部の1学年後輩、桑田・清原とともに日本高校野球選抜選手に選ばれた。著書に「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」(ごま書房)、「車いすの不死鳥」(主婦と生活社)がある。