ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
ある日突然、車いす

風邪ひくとすぐ肺炎に
死と隣り合わせ


清 水 哲

写真
PL学院の後輩でプロ野球巨人軍(当時)の桑田選手(左)と清原選手(右)がアメリカ製の電動車いすを贈ってくれた。講師として招かれた宮崎キャンプで両選手と記念撮影する清水さん(2001年2月6日)

 昨年の1月。私は肺炎にかかり、もう少しで命を落とすところでした。

 枚方のFMでNPOのコーナーがあるんですが、月に一度、ボランティアでそこのパーソナリティーをしていました。

 その日、ゲストの方が風邪をひかれていて録音中にも咳(せ)き込まれたり、鼻をかまれていて、それを見て「俺にうつらなければいいけど・・・。」と思っていました。なぜなら、狭い密室の録音室に6人だけという悪条件です。しかも、頸椎(けいつい)損傷の者が風邪を引くと腹筋や肺活量が弱いため、排タンがうまくできずすぐに肺炎になって死んでしまう事が多々あるからです。

 ボランティアも無事に済み、帰宅して、いつものように食事を済ませてテレビを見て寝る用意をした時に喉が痛い事に気付きました。だから、風邪薬を飲んで寝ました。

 次の日も喉の痛みは変わりませんでしたので、朝、昼、夜と風邪薬を飲んで、家でゆっくりとしていました。

 その次の日、本来なら野球を教えに行く日だったんですが、風邪気味という事で無理をせずに薬を飲んで家で寝ていました。すると、夜になるとタンの量が増えてきましたが、まだ特に変わりもなくそのままにしていました。すると、夜中の12時頃からタンが急に増えて、私一人では排タンがうまくできませんので、妻に腹圧をかけてもらってタンを出すんですが、2時間でティッシュペーパー1箱が無くなるほどタンが出だし、それだけ出てもまだタンは次から次へと出ると同時に喉に負担がかかり喉から出血しだし、喉の痛みに耐えきれず、家の隣の病院に電話を妻にかけてもらって診察をお願いしたのですが、「医師がいないから診察できません」と断われました。

 そんな状態で朝の6時まで我慢して救急車を呼んでもらいました。もう一度今度は救急隊の人から家の隣の病院へ連絡を入れてもらったのですが、やっぱり受け入れてもらえませんでした。それで、仕方なく救急隊の方がいくつかの病院名をあげて下さった中から市民病院を選び運んでもらいました。

 私の家の隣の病院というのは、私がケガをした当初にリハビリをした病院です。だから、どこよりも頸椎損傷の知識を持っている病院という事もあり、私はわざわざこの病院の近くで家を探して引っ越しをしてきたのです。

 1日たっても、2日たっても状態は良くなるどころか悪くなるばかりで、特に抗生物質が体に合わず、体中に湿疹ができる始末でした。

 市民病院に入院はしましたが病状は悪くなるばかりでした。それに、頸椎損傷の知識も持たれていませんので、入院当初から私の家の横にある病院へ転院させてもらえるようにお願いしていたのですが、先生との行き違いがあって転院できませんでした。

しみず・てつ氏
1966年生まれ。高校3年の時には、PL学園野球部の1学年後輩、桑田・清原とともに日本高校野球選抜選手に選ばれた。著書に「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」(ごま書房)、「車いすの不死鳥」(主婦と生活社)がある。