ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
きょうだいとして 支援者として…1

導かれるように児童精神科医に
弟の異変、何もできなかった(2015/11/16)

田中 一史



写真
両親が仕事の間、弟の面倒を見る田中さん(左)(大阪市の自宅で)

 私の勤める京都市児童福祉センターには、さまざまな障害をもつお子さんと、その保護者の方が訪れます。診察室では障害のあるお子さんは思い思いに遊んで過ごし、保護者は障害のあるお子さんの発達や行動、進路などさまざまな相談をされます。そしてその場には、家族としてきょうだいも一緒に来ていることがあり、診察室で遊んだり待ち合いで宿題をして過ごしています。保護者からきょうだいのことについて話題になることはあまりありませんが、わたしは、ついそんなきょうだいたちのことが気になって目を向けてしまいます。子どもの頃の自分の姿を重ねてしまうからでしょうか。

 私には、重度の知的障害の弟がいます。両親からは出生時に仮死状態で生まれたことが原因と聞かされていたものの、物心つく頃には、弟は他の子と同じように話したり遊んだりすることは難しいこと、そして今後も何事もできるようになるのに時間がかかるということに自分でも気づいていたように思います。

 子どもの頃の私にとっては、食べ物や遊び方にこだわりがあったり、人混みが苦手なため外出先が限られたりはしたものの、笑顔で私についてきて遊びをマネしたり、一緒に音楽を楽しんでくれるかわいい弟でした。弟は私と違う幼稚園に通い、小学校は地域の支援学級、中学から養護学校にすすみました。私は小学校から地元から離れた学校に通うようになったので、弟のことでいじめられたり弟のことを話題にされたりすることはありませんでしたが、「障害」「ガイジ」といった差別的な言葉を使う人を見ると弟をばかにされたように思ってけんかをふっかけるといったことはあったようです。

 中学から大学を卒業するまでは自分のことに精いっぱいで、弟のことにはあまり関わっていなかったと思います。弟はいずれ自分が養うものと思いこんでいたのと、両親からも良くも悪くも自分のことに集中するようにプレッシャーをかけられていたこともあります。今から思えばこの時期から弟は調子が悪くなり、硬い表情でその場から動かなくなることが増え、学校に行くことにも抵抗し、人の目を嫌って腕や服で目を覆うようになっていました。両親も私も、弟が養護学校で適切に支援されていないと漠然と不安を抱いていましたが、この時には何もできませんでした。もう少ししっかり関心を持っていたら、あるいは今の半分、いや一割の知識でもあればと後悔しています。

 医学部を卒業するにあたって、何となく子どもと関わりたい気持ちから小児科にすすみました。小児科で六年間無我夢中で働く中で、ふとしたきっかけで子どものこころや発達、そして障害について診断、支援をする「児童精神科」の仕事を知ることになります。それは自分でも気付かなか?た「自分が一番やってみたかったこと」でした。縁に導かれるままに京都市児童福祉センターで働くことになり、障害のある人のきょうだいというだけでなく、障害のある人の支援者という立場になりました。


たなか・かずし
1974年、大阪府生まれ。
2000年、京都府立医科大卒。京都府立医科大付属病院小児科などで勤務後、06年から京都市児童福祉センターなどで児童精神科医師。
08年よりきょうだい児支援の会「なかよし会」代表。