団地の出口の階段を降りたところで、身体の向きを90度左に向ける。50メートルくらい先にあるバス停の方角を確認する。白杖を左右に振って、前の安全を確かめながら歩く。目からの情報は何もない。それを補うように、五感は自発的に頑張ってくれる。耳は、いろいろな音を聞き分けてくれるし、足の裏は、横断歩道の点字ブロックなどをキャッチしてくれる。鼻もがんばり屋さんになった。のんびり歩く僕を、枯れ葉が北風とたわむれながら追い越していく。季節は、冬へ急いでいるらしい。
バス停は、点字ブロックを敷設してくれているので、白杖か足の裏が探してくれる。時刻表は分からない。バスが到着して、ドアが開く時に、行き先案内が流れる。それを聞いて自分の乗るバスを探す。白杖を確認した運転手さんの中には、マイクで系統番号などを再確認してくださる方もおられる。安心して乗車できるから有難い。乗車しても、空いてる席は見つけられないから立っている。優先座席があるにしても、それがどこにあって、そこが空いているのか分からない僕たちにとってはどうしようもないのだ。時々、運転手さんや気づいた乗客の方が、空いてる席を教えてくださる。譲ってくださる方もおられる。朝一番から座れたりする日は、とてもいい一日になりそうな気がしたりして。うれしくなる。
視覚障害は、情報の障害と、移動の障害だ。情報の障害があるから、移動の障害も発生するのかもしれない。人間が生きていくために必要な情報の、80%は目から入るらしい。僕は全盲だから、80%の情報が不足した中で生きていかなくてはいけない。ロービジョンとか弱視とかの人は、その情報量に個人差があるのだが、普通に生きていくには足りない情報量なのだ。ちなみに、移動は、個人差がとても大きい。どの程度の視覚障害なのか、いつなったのか、どれくらいたったのか、バランス感覚はどうなのか、訓練を受けたのかなどさまざまな要因で、違う。ガイドヘルパーさんと歩く、白杖で歩く、盲導犬で歩く、自分に合った方法を選ぶのが大切だ。
バスが、桂駅に到着した。今日の僕の目的地は、散髪屋さん。見えてるころから通っている馴染(なじ)みのお店なので、だいたいの場所は分かっている。頭の中の地図を頼りに動く。ドーナツ屋さんの横の階段を昇って、少し進んで空間を察知したら、斜めに動いてぶつかったところが入り口だ。中に入ると、店員さんはいつものように、僕をサポートして座席まで連れていってくださる。椅子(いす)の背もたれを触らせて、椅子の場所、向きなどの情報を伝えてくださる。何の問題もなく座れる。そして、見えてたころと同じような手順で散髪が進む。笑って顔で話しながら、シャンプーしてくださる。見えてたころと違っているのは、鏡の中の自分が確認できないこと。でも、これは、見えた方が幸せなのか、見えない方がラッキーなのか…。男前でありますように!
まつなが・のぶや氏
鹿児島県阿久根市出身。佛教大学社会福祉学科卒業。52歳。京都府視覚障害者協会理事。著書に『風になってください』(法蔵館)、『「見えない」世界で生きること』(角川学芸出版)。