ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
難病患者 就労への挑戦

(1)難病ストーリーは突然に

ジューショーキン…なんやそれ?

上野山裕久さん



写真
発病前で疲れやすい、無理がきかないなどの身体に違和感を感じはじめたころに妻や友人と韓国・板門店へ旅行する上野山さん堰2002年10月(本人提供)
  「先生、私死にますか?」

 病名を告げられ最初に発した言葉です。ジューショーキンムリョクショー、音の響きではピンとこなかった。医師が紙のカルテに漢字で書いてくれた『重症筋無力症』(おれ重症なんや、筋は筋肉のことやな、無力って、筋肉なくなっていくことちゃうのん? わやや)。

 なぜか分からないが物理学者のホーキング博士が脳裏に浮かんだ。ん? あの人健在やな。でも常人とは違うし…いろんなことが一瞬で頭をよぎる(この間0・998秒)そこで条件反射のように口から出ました。

 上野山 「先生、私死にますか?」

 医師 「今はこの病気で死ぬ人はほとんどいませんよ。ちゃんと治療しないといけないけどね、重症筋無力症と言いましたが、病名をしっかり確定するには入院して検査が必要です」

 上野山 『先生どれくらい入院しないといけないですか?」

 医師 「二週間は最低必要やね? 治療も含めると一カ月はかかります」

 上野山 「いつから入院すればいいですか?」

 医師 「今日からでも入院してください。クリーゼといって呼吸困難を起こしたら死んでしまいますので」

 上野山 (まずいなあ、一週間後に久保田利伸のコンサートがあるんだよなあ)「先生、仕事の引き継ぎもありますので、一週間時間ください。クリーゼは多分大丈夫だと思いますので」

 仕事の引き継ぎはソコソコに、信頼している先輩がいましたので引継書にまとめて報告、電話で補足することで解決しました。

 そして一週間後の久保田利伸のコンサート。「♪ひさ〜しぶりだ〜ね? きょうと〜♪」。この日の私はファンキーピーポーにはなれず、恒例の3チームに分かれて踊るダンスの時も全身だら〜んと座っているだけであった。そう白く燃え尽きた矢吹丈のように…。

 で、翌日から晴れて入院生活が始まったわけであるが、要望していた大部屋は満室のため空くまで入ることができず、とりあえず2人部屋に通された。人工呼吸器等の生命維持装置を付けた50歳半ばの男性が相方です。お付きの人(奥様でしょうか)から「人工呼吸器のプシューの音が止まったら看護師さん呼んでくださいね」とサラっと言われました。まあプシューの音がそうそう止まるわけがないと思ったが、消灯の午後9時からナースステーションが動きだす朝までプシューは数回止まり、その都度ナースコールを押すことに。

 定期的に訪れるプシューの音の呪縛にとらわれた気がした35歳の夜。一睡もできなくて迎えた朝食の後、出された薬にピンク色の小さな粒が二つ交じっていた。この後15年間今もずっとお付き合いしているプレドニン(ステロイド)との記念すべき出会いの日です。

 この時私は入院生活がこれから210日間続くことになろうとは知るよしもなかった…。

原則毎月第3月曜に掲載します。

うえのやま・ひろひさ

1967年、和歌山県串本町(旧古座町)生まれ。
和歌山県立古座高卒。京都府城陽市の会計事務所で10年勤務。35歳の時、重症筋無力症(難病)を発症。41歳、合同会社パッショーネを設立し難病患者の就労を支援する活動をスタート。43歳、NPO法人京都難病支援パッショーネを設立。45歳、就労系福祉サービス事業所を設立。50歳。