ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
難病患者 就労への挑戦

(2)先生 仕事がしたいです・・・

当初は週1日6時間が精いっぱい

上野山 裕久さん



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胸腺摘出手術をして身体に付いていた管が全部取れステロイドの影響で、顔がパンパンに浮腫んでいるムーンフェイスと呼ばれる状態の上野山さん(写真は本人提供)
 掲載二回目であります。前回読んでくださった方ありがとうございます。タイトルにある「就労」の話は出てこないの? とのお声をチラといただきましたので今回少し触れたいと思います。

 難病(重症筋無力症)で入院していた初めの2カ月間は就労や仕事の心配は何もなかった。退院すれば今までと何ら変わることなく仕事ができるものだと考えていた(発病直前は個人事業主として働いていた)。もっといえば病気は完全に治る、根治するものだと思っていた。難病で一生治らないと告げられたとしても心の奥底のどこかで治る、と今でも思っている。やまない雨はない、明けない夜はない、あきらめたらそこで試合終了ですよ。

 入院して3カ月もたつと病状は悪化する一方で、胸腺摘出手術(合併症である胸腺の腫瘍を切除すると病状が良くなる可能性がある)もあり仕事のことは頭からすっかり消えていた。思うように体が動かなくなり、仕事どころではなく、日常生活ができるのか否かの心配が先となった。

 7カ月間にも及ぶながーい入院生活をイヤというほど満喫していた頃念願の退院の話、というよりせがんで得た退院許可です。

 しかし自宅での生活は想像以上にきついものでした。病院との1番の違いは座るのが地べたなのか、椅子なのか。地べたというのは畳やカーペットのことで座椅子やクッションを使った生活スタイルです。立ち上がる時は足の筋肉、特に大腿(だいたい)四頭筋に負荷がかかり、左右のバランスも取るため体幹にも負荷がかかるので地べたでの日常生活が1番のリハビリかもと実感しました。

 この時就労の事をどう思っていたのか、正直全然気にもしていない、そこまで余裕がなかった。歯を磨くこと、着替えること、頭を洗うことが精いっぱいで就労について考えることは「訓読みのクンは音読みである」ぐらい私の中ではどうでもいい位置付けとなっていた。しかし生活するにはお金が必要です。長期の入院であったので生命保険の給付金がソコソコありしばらく生活をつないだのですが、妻も病気で入院することになり当面の生活費の確保が困難になりました。

 そんな状況下でも楽観的な私は「日本に、生活保護があってよかった」「そうだ、生活福祉課、行こう」と軽く考えていた。実際申請にも行きましたが貯蓄性のある生命保険を掛けていたため「それを取り崩して底をついたらまたおいで」とのこと。

 そうこうしている内に妻が仕事のできるまで回復し、私も週に1日6時間程度仕事ができるようになった。以前からお世話になっている方に声をかけていただいたのがキッカケです。仕事内容は経理業務、月次試算表作成に向けての会計処理がメインで付随する社内規定の作成を空いた時間で進めていくものであった。会計ソフトの選択から勘定科目設定、規定作成の優先順位などを丸投げしてくれたので自分のペースで仕事の段取りができたのでありがたかった。

 この頃私は就労支援の活動をすることは全く頭になく、難病を抱えて就労する真の困難さにも気付いていない。週に1日6時間働くのにボチボチ体調を整える日々。就労への挑戦はまだ始まっていない。

うえのやま・ひろひさ

1967年、和歌山県串本町(旧古座町)生まれ。
和歌山県立古座高卒。京都府城陽市の会計事務所で10年勤務。35歳の時、重症筋無力症(難病)を発症。41歳、合同会社パッショーネを設立し難病患者の就労を支援する活動をスタート。43歳、NPO法人京都難病支援パッショーネを設立。45歳、就労系福祉サービス事業所を設立。50歳。