ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
難病患者 就労への挑戦

(3)ああ諸行無常

好調一転・・・会社が解散、再発まで

上野山 裕久さん



写真
会社の社員旅行で比叡山延暦寺で座禅研修をする上野山さん=写真手前(写真は本人提供)
 倒産した。

 退院後働き始めた会社が…正しくは解散、清算を行った。すなわち会社の存在自体がなくなったのです。勤めてから5年、毎日勤務できるまで体力も回復していました。まさにこれから(で、何すんねんと特にビジョンはありませんでしたが)、ちまたでは3歳牝馬のブエナビスタが有馬記念を勝ちきるのかと話題となっていた41歳年の瀬の出来事です。

 この5年間の就労について振り返ってみます。順調に働けていたかというとそうではなかった。最初は週1日の勤務から始めて、2日、3日とジョジョに増やしていき、ほぼ毎日週5日出社できるまでになった。1日の勤務時間も6時間から7時間に伸ばし、8時間を越える日もありました。自身の中では多少無理している感はあったが、胸腺も取っているので大丈夫、再発はしない。たぶんしないと思う。しないんじゃないかな。ま、ちょと覚悟はしていたが、ヤツが現れたのは急であった。

 再発した。

 自分の頭を首の筋肉が支えられなくなったのである。仕事でパソコンに向かう時は机にひじを置き、手で顔を支えてキーボードに頭が落下するのを防いだ。ロダンの考える人のポーズを取り続けていた。何も考えていない時も、仕事してるフリをしている時も、居眠りしている時も常に私はロダンのそれであった。席を立つ時は頭のふらつきを抑えるため眉間に手を添え支えるのである。はた目には明らかにクセがすごい人であったが、職場の皆は温かくそっと見守ってくれた。「何してんの?」と聞かれれば「え〜今回の犯人は実に手ごわいです〜古畑任三郎でした…」と返しを準備していたが披露する事はなかった。病状がいったん悪化に向かうと、勤務時間を短く、出勤日数を少なくして負荷を抑えても回復の兆しはなく、やむなし二度目の入院となった。残した業務は優秀なメンバーに恵まれていたので心配はなかった。いつ急に職場に出られなくなるか不安があったので、業務引継書を準備していた。知り合いの社会保険労務士の力も借りて体制を組んだので私がいない時の方がうまく業務がまわっていたと思う。勤めているときに心掛けたのは人に仕事がつくのではなく、仕事に人がつくこと。私しか知りえない情報をなくし、ファイリングして極力「見える化」を意識した。自分にしかできない仕事を組織の中で意図的につくりあげて自分の存在価値を示すような幼稚なことをせぬよう、難病患者は特に気を付けねばならないですね。自分がいなくなる場面を明確に描いておく必要があります。その場所(職場)には戻れない場合も十分あり得ると想定しておくべきです。

 結果2度目の入院は前回の7カ月間に対し、5カ月間と2カ月間短いのですが、前回を上回るつらいものでした。内3カ月間は寝たきり度ランクBの状態であった。それがある事件をキッカケに準寝たきりのランクAに一瞬で変わり、自立できるまで回復したというアンビリバボーな奇跡体験を次回お伝えできればと考えています。

うえのやま・ひろひさ

1967年、和歌山県串本町(旧古座町)生まれ。
和歌山県立古座高卒。京都府城陽市の会計事務所で10年勤務。35歳の時、重症筋無力症(難病)を発症。41歳、合同会社パッショーネを設立し難病患者の就労を支援する活動をスタート。43歳、NPO法人京都難病支援パッショーネを設立。45歳、就労系福祉サービス事業所を設立。50歳。