ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
難病患者 就労への挑戦

(5)あえて言おう、難病であると!

連戦連敗 ならばと法人設立

上野山 裕久さん


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「ハロワで撃沈」 原作:上野山裕久、作画:永野智香
 0勝20敗。

 敗戦数が20を超えてからは、今まで食ったパンの枚数まではいかないにせよ、よく覚えていない。

 これはハローワークでの求職活動の成績だ。面接で落ちたのが1社、書類選考で落ちたのが1社、残りは全て電話窓口で跳ね返された。

 希望する会社の人事担当者に、障害者求人担当の方が電話してくれます。

 「41歳男性、難病患者で通院中、はい、重症筋無力症という病気です。短時間労働を希望しています。はい、障害者手帳は持っていません。あ、そうですか…失礼します」。おおむねこんなパターンで撃沈します。後で担当者からいつ頃病気は治るのですかと聞かれ、「いやあ基本治らないっすわあ」とこのくだりまでがいつもの流れです。

 「じゅうしょうきんむりょくしょう」この響きもまたよろしくない。電話口に立ちはだかる大きな壁です。これから病名を聞くぞと構えている耳から入る「じゅうしょう」の音は「重症」あるいは「重傷」と脳内で変換される。ごくまれに「重賞」と変換する人がいる。競馬ジャンキーだ。「きんむりょくしょう」は「筋無力症」と素直に変換する人が多い。「勤務力小」と変換できなくもない。「重症勤務力小」いかにも仕事ができなさそうである。ちなみに競馬ジャンキーの脳は「重賞金夢緑賞」と変換する。

 電話口で断られ続けると、「難病を隠しちゃえ、会社に入って人間関係築いてから伝えたらいいじゃん」とアドバイスを受けるようになる。月に1、2回の通院が必須であり、それ以外に2、3日は欠勤すると予測できる。決定的打撃を受けた私の身体にいかほどの力が残?ているのか、形骸ではないことを祈りつつ「あえて言おう、難病であると!」この姿勢は貫いた。そして行き詰った。すると京都難病相談・支援センターを紹介していただいた。

 当時は宇多野病院の中、奥の方にあり、ダンジョンを探索するかのよう迷いながらたどり着いた。

 「あのう…就労の相談なのですが…」

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京都難病支援パッショーネの設立当初から関わりのある人たちと。左から2人目が上野山さん=本人提供
 「就労相談は難病患者も障害者相談室で対応してくれますよ。京都駅前のハローワーク4階にあります」

 「ここ紹介してもらったのはそこなんです。あれ?…」

 二人して顔に縦線が現れた?ちびまる子ちゃんのひとコマだ。渡された登録シートに記入する。現状保持している職能スキル、どのような業務を一週間に何時間なら就労できそうかなどを記入する。

 この用紙を指示に従いハローワークの担当者に渡した。数週間後にこの情報がどんな使われ方をするのかを確認した。ありがたいことに担当の方は明確で具体的、かつ端的な一言に凝縮して伝えてくれた。

 「机の引き出しで眠ってます」

 申し訳そうな小声で、反面言い終わった後は何か清々しさも感じられた。さらに追い打ちをかけられる。

 「あの書類何に使うんでしょう?」

 「えーーー!」

 パッショーネが生まれるキッカケとなった。


うえのやま・ひろひさ
1967年、和歌山県串本町(旧古座町)生まれ。
和歌山県立古座高卒。京都府城陽市の会計事務所で10年勤務。35歳の時、重症筋無力症(難病)を発症。41歳、合同会社パッショーネを設立し難病患者の就労を支援する活動をスタート。43歳、NPO法人京都難病支援パッショーネを設立。45歳、就労系福祉サービス事業所を設立。50歳。