ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
私は若年性認知症/藤田和子

看護師を退職
複雑な仕事は無理と決断


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看護師になりたてのころの藤田さん(1985年ごろ、鳥取市赤十字病院)

 2007年、私は個人病院でパートの看護師として働いていましたが、自分の記憶に関する力に不安を感じる場面が職場でもありました。

 仕事中、足りなくなった物品を書き出すときに簡単な文字がうまく書けなかった事もあります。普段取り扱っている検査器具の使い方は分かるのですが、めったに使わない物の使用方法を思い出すのに時間がかかり、とても焦ったこともありました。患者さんを診察室に呼ぶためにカルテを確認するのですが、診察室のドアを開けるまでの数秒間で覚えた名前を忘れてしまうことがありました。待合の患者さんの顔を見て思い出したり、もう一度カルテを見直して名前を意識してから呼ぶこともありました。

 私は業務をこなすのに非常に緊張し神経をすり減らしていたため、半日の勤務を終えて帰ると、くたくたで、そのまま寝込むことが増えていました。家事に向かう気力がなくなることもありました。

 同僚には、職場や日常生活で起こっている自身の不安を話し、アルツハイマー病ではないかと思っているのだと伝えていました。けれども当時は、他人から見るとしっかりと仕事ができていて問題があるように思われなかったようです。一緒に働いている医師にも伝えていましたが、仕事はできていると感じられていたようでした。異変に気が付いているのは自分だけで、周りの人たちに相談しても、大丈夫だと慰められることが多かったのです。

 結局、翌年3月で辞表を出しました。5月になると私が勤務する病院では、健康診断を多く受け付けるようになります。そうすると業務が複雑になり、今の私では、これまでのスピードでその業務をサポートなしでこなすのは無理だろうと思い決断しました。あと一人でも看護師を増やしてもらえたら、私の業務の負担も減り仕事を続けられるかもしれない、と職場の仲間と話したことがあります。けれどもその当時の私は、アルツハイマー病の人が仕事を続けること、そのために人材を増やしてほしいと要望を出すということはできない、と決めつけていました。アルツハイマー病の私が、職場に迷惑をかけないように辞めるのが当たり前だと考えていました。

 病院に勤務する看護師の多くは、私と同じように考えると思います。病気になる以前と同じ仕事量、仕事をする速さを求められることや、一度にたくさんの業務を同時にこなすことはアルツハイマー病の人にとっては難しくなります。医療にかかわる人間でさえ、初期のアルツハイマー病患者の日常生活の困難さ、それに対するサポート方法を理解していない現状が続いています。

 社会において、アルツハイマー病の患者、認知症の人々が働き続けたいと希望するときに、どのようなサポートをすれば就労が可能になるのか? 患者それぞれに合った方法を考えることが重要です。それが、早期発見や病気の進行を遅らせることが可能となってきた今の時代に求められることだと思います。


ふじた・かずこ
1961年、鳥取市生まれ。看護学校卒業後、看護師として市内の総合病院に9年間勤務。認知症の義母の介護を9年間行った後、市内の個人病院に復職し8年間勤める。2007年6月、若年性アルツハイマー病と診断され、その後退職。10年11月、若年性認知症にとりくむ会「クローバー」を設立し代表に。11年11月から、鳥取市差別のない人権尊重の社会づくり協議会委員。