ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
六畳半の宇宙から

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

詩集「Kt38・1℃」の出版記念パーティーで父親に車いすを押される川北さん(1990年12月、福井県小浜市)

詩という名の武器
手抜きの作文 ほめられ快感

川北 浩之


 僕っていう人間は、詩を書き始めたきっかけも、思えば変だ。僕は、6歳のとき施設に入れられた。僕は、家族に捨てられたと思った。3週間泣き続けた。断っておくが、そこまで泣いたのは、あとにも先にも僕だけだ。きっとその施設最悪の問題児であったと自画自賛している。

 そんな僕でも、人の倍、想像力があった。思えば小さな時、妹に絵本を読んでるふりをして、ぜんぜん違う話をしてた。あのころの兄思いの妹は、何も言わず、笑って話を聞いてくれていた。思えば、それが詩の始まりかもしれない。

 施設では、訓練士を注射で刺したり、勉強のとき関係のない話ばっかりし、月1回の面会日には親がかわいそうになった。だって、面会日のたびに、施設から小言を言われるのは、決まっていたし。

 ところが、5年生の作文の時間に、手を抜いた文章を、担任の教師が「これは詩や」と騒ぎ出して、その日から、詩を書かされ始めた。ほめられれば、ほめられるほど、快感を覚えてしまって、やがて親に報告される。その時の親の顔を、忘れられず今に至る。

 時には、口説くのに、使ったり、世間批判に使ったり、友を励ましたり、と何かにつけて、詩を利用しているが、僕が詩を書き綴っているのは、5年生の時の親の笑顔が、見たいからだ。


 そのうち、やる気のない僕に、施設の友だちが、山崎ゆかりさん(注)という人の詩集を見せて、叱咤(しった)してくれた。本のタイトルになっている「Kt38・1℃」とは、その友だちのその時の体温。つまり、そいつはその時、風邪でしんどかったのだ。それを意気に感じやる気になった。僕は若かった。

 当時の施設の指導課長(悪友みたいなの)に声をかけ、新聞記者に文化人を紹介してもらい、若狭東高校(福井県小浜市)の教師の家に集まり、詩集に載せる詩を選んでもらった。その時、飲んだ地酒と、あんこう鍋の、おいしさは忘れられない。その施設は外出禁止で、それを破っている僕らは施設長の眼の敵だった。なぜか、出版記念パーティーを、ホテルで開くのには、参加していた。

(注)
山崎ゆかりさん(1963―) 福井県出身、脳性まひの当事者で詩作に励む。わたぼうし音楽祭など入賞。



かわきた・ひろゆき
1962年、綾部市生まれ。
出生時から脳性まひで重度身体障害者。舞鶴共済整肢学園、向日が丘養護学校(長岡京市)、丹波養護学校高等部(南丹市)、身体障害者療護施設「友愛園」(福井県小浜市)で学んだ後帰郷。生活空間の六畳半の部屋から発信を続ける。詩集「Kt38・1℃」、「六畳半の宇宙」、川北さんの詩に友人が曲をつけたCD「虹のできた街のように」を刊行した。