ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
六畳半の宇宙から

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

「詩を語る夕べ」に出演し、母を思う自作の詩などを披露する川北さん(2004年8月29日、綾部市・豊里コミセン)

夢を阻んだ介護者の確保
厚かった自立の壁

川北 浩之


 1990年に詩集「Kt38・1℃」を出版した後、障害者の忘年会に出席したことがあった。その時、僕が詩に「心だけは障害者になりたくない」と書いたのを見て「なぜ障害者ではあかんのや」と、真剣に怒ってきた人がいた。そりゃそうである。障害者の僕が、障害者である生き方を否定したのだから。

 確かに、施設にいると僕のような考えは邪魔になる。その結果、僕は浮いてしまって、ある人を、精神的に追い込んでしまっていた。そんなこんなで、施設の人間関係に疲れ果てていた僕は「自立」と、もっともらしい名目をつけ、13年間過ごした施設から脱出した。

 そんな僕だったから、最初から、うまく行くはずがなかった。身体障害者の自立がうまくいくか、いかないかは、介護者の確保ができるか、できないかで、決まる。僕は「自立するのやったら、面倒、見るから」と、言ってくれていた、施設の指導課長の知り合いを、頼りにしすぎていた。

 介護者のいない生活が、3日も続くと、施設から出たてのものは、頭を使わず「根性」とかいって、体力を使ってしまう。その結果が僕の失敗だと、思っている。自立とは、一人のためでは、ないのだと、意気込んでいたが、結局、間違いだったのは言うまでもない。


 そして、挫折して以後、家で暮らす。介護をしてくれていた母が倒れて病院通いするようになり、ヘルパーを頼む。そのヘルパーの勧めで、障害者用のパソコンをやる。そのころから、苦労より工夫のほうが大切だと分かり、ホームページをやり始める。野球おたくのページにしたかったのに、なぜか、詩を、書く羽目になり、それを、見ていた、母方のおばが、母に「詩集を出版したら」と、言う。母が「冥土の土産にする」と言い出して、一回目のとき、お世話になった出版社に、病気なのに京都まで、一人で行って、あくる日、寝込んでいた。

 そんなことで、きっかけを作ってくれたホームページの管理人を実行委員長にして、宣伝とか、詩を選んだりとかしてもらった。詩集作りは、良い出版社と、出会うことだと思った。ホームページの、管理人は今でも、一番、頼りにしている。「六畳半の宇宙」という、タイトルは、彼の案である。



かわきた・ひろゆき
1962年、綾部市生まれ。
出生時から脳性まひで重度身体障害者。舞鶴共済整肢学園、向日が丘養護学校(長岡京市)、丹波養護学校高等部(南丹市)、身体障害者療護施設「友愛園」(福井県小浜市)で学んだ後帰郷。生活空間の六畳半の部屋から発信を続ける。詩集「Kt38・1℃」、「六畳半の宇宙」、川北さんの詩に友人が曲をつけたCD「虹のできた街のように」を刊行した。