ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
六畳半の宇宙から

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

「男会」のラストコンサートで歌う川北さん(右)とギターを弾く大森さん(中央)=1989年3月、福井県小浜市

手づくりの歌 ありがとう
ゆったんと大森さん

川北 浩之


 僕には変わった悪友がいる。今回の主人公の大森和良氏(60)である。大森氏は小学校の先生であったり、若狭自然の家という、少年育成娯楽施設みたいなところで働いている(現・福井県小浜市立内外海=うちとみ=小校長)。

 彼との出会いは19歳の夏のことだ。施設に言語障害のある男がいた。僕はそいつの破天荒なところが好きだった。いつも発声練習で「だは、だは」と言っていた。そいつは、歌が好きだったので、歌わせたらすごいことになるぞと「打破」という詩を作り、ちょうどその時来ていた大森氏に見せたら、2時間後に「できたで」と、曲を作ってもってきてくれた。その歌を軸に「男会」というグループを作り、コンサートをやった。喫茶店を借り切って。

 その時僕は、企画、構成、司会を担当した。破天荒な彼をリードボーカルにして。

 あとのメンバーの、がんばりもあって、コンサートは大成功に終わる。終わったあと、施設に内緒で飲んだ、缶チューハイはうまかった。それから1年で、そのグループは活動を停止するが、大森氏とは、家に帰った現在も、コンサートを開催したり、CDを作ったりしている。


 こんなこともあった。AKBの「ゆったん」(増田有華さん)と雰囲気の似た女子高校生がいた。彼女との出会いは、同じ病院に入院していた母親が、失礼にも男の子に間違えて、僕の詩集を売って「ボク、良かったら、息子とメール交換して」と頼んだことだ。母親は病院を抜け出して僕に、そのゆったんのメルアドを渡して、「あんた、この子かわいく素直でいい子やから、メール交換しろ」と、言った。詩を書いて送ると、ゆったんも詩を送ってきた。上手を通り越してすごかった。大森氏に見せたら、おじさまもゆったんの詩をものすごく気に入り、曲をつけようという事になり、僕の部屋で、作曲をした。僕の意見を聞きながら。

 その曲が彼の作った何百という曲の中で、一番好きだ。詩というものは、人と人を結びつけるものだ。ぼくはゆったんのおかげで、秋元康になった気分だ。

 ありがとう、ゆったん。大森のおじさん!。

 ゆったんは、その後、徐々にではあるが治り始めて、夢である画家への道を、歩み始めている。



かわきた・ひろゆき
1962年、綾部市生まれ。
出生時から脳性まひで重度身体障害者。舞鶴共済整肢学園、向日が丘養護学校(長岡京市)、丹波養護学校高等部(南丹市)、身体障害者療護施設「友愛園」(福井県小浜市)で学んだ後帰郷。生活空間の六畳半の部屋から発信を続ける。詩集「Kt38・1℃」、「六畳半の宇宙」、川北さんの詩に友人が曲をつけたCD「虹のできた街のように」を刊行した。