ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
老老介護を生きる

1. 負けてたまるか

共生の悦び 誇り高く

 

有田 光雄



 わたしたちは、大学・高専の男女共学がはじまった1947年入学の同級生です。専門学科はちがいますが、学生運動の大きな流れの中で知り合い卒業後に結婚してから今年でもう64年目になります。妻・有田和子は、戦後日本ではじめての女性獣医師の資格取得者で、若い頃は、まるで「地球を蹴って歩いてはる」と言われたほどいつでも颯爽(さっそう)としていました。

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介護4年目のお花見で(京都府大山崎町)
 その妻が、八十路に入ってから転倒するようになりました。2010年6月、京大病院脳内科に約1カ月間の検査入院の結果、医師団は、パーキンソン病の一種で10万人に2人の割の難病、「大脳皮質基底核変性症」の病名と、「二年後の寝たきり・認知症」を告知しました。

 こうして、夢想もしなかった老々介護の日々がはじまりました。妻の健常時代の仕事が全部、一挙にわたしの肩に転化しました。家計の管理から炊事、洗濯、掃除、ゴミだしなどの家事一切にくわえて介護の仕事です。

 退院当時の妻は、まだ歩行器を使って歩いていましたし、会話もありました。

 「パパごめんね。きっとなおすからね」

 呟(つぶや)く姿に何度涙したことでしょう。ほんとうに、無我夢中の毎日でした。「出もの腫れものところきらわず」、いわゆる「下の世話」で途方にくれたこともありました。こうした中で、一方では、あり金はたいてトイレや浴室などの大改造をしながら、他方では、老人ホームへの「転居」を真剣に考えたのもこの時期のことでした。

 それから、早くも4年4カ月目の晩秋。退院当時の、「要介護4」の認定が一年後の夏には5になりました。「要介護5」といえば、「過酷な介護が必要な状態…生活の全般にわたって全面的な介護が必要」(「介護保険法」)とあります。たしかに、車椅子なしには暮らせないし、お襁褓(むつ)も常用です。また、だんだん笑顔も少なくなり、車椅子でも眠ることが多くなりました。とはいえ、まだ歩行器で歩いていたころ、「生きてるうちはがんばらんとなあ」とつぶやいていたガンバリズムに、家族の団結と懸命の介護、それに、ヘルパー軍団の温かい介助、この総合力の甲斐(かい)あってか、今でも、寝たきりではないし、以心伝心ながらも意思疎通があるし、おうむ返しながら、「美味(おい)しいか」と問えば、「オイシイヨ」、とこたえる小さな「会話」もあります。なによりも周囲をホットさせる笑顔があります。

 たしかに、老齢のわたしにとって在宅介護の日々はしんどいです。しかし、介護には、むくいなき奉仕という一面もありますが、同時に、共生の悦(よろこ)びがあり、むしろ、今では介護の苦労が生き甲斐に転化しているから不思議です。

 フランスのノーベル文学賞作家、ロマン・ロラン(1866〜1944年)は、「生きるとはたたかいである。目に見える敵、目に見えない敵とのたたかいである」と言いました。いつはてるともしれない在宅介護の日々は、文字どおり、「目に見えない敵」とのたたかいそのものです。だが、「明けない夜はない」と、不屈に生きる東日本大震災・原発被災者の皆さんに思いを馳(は)せながら、わたしたちも誇り高く不屈に生きていきます。負けてたまるか、です。


写真 ありた・みつお

1930年、島根県生まれ。50年鳥取農林専門学校卒業。
51年京都府に採用され、60年代に府職員労働組合書記長など歴任。74年、立命館大学経済学部非常勤講師として公務労働論などを講義。78年府を退職。「住民自治と公務労働」、「物語 京都民主府政」など著書多数。京都府大山崎町。84歳。