ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
老老介護を生きる

2. 生きてるうちは頑張らんとなあ

後ろは見ない 二人三脚

有田 光雄



 「おはよう! 生きてるか?」サイレントな空間めがけてジョーク一発。すると、笑顔とともに「イキテルヨ、イキテル、イキテル」の返事。

 笑顔を見ると元気がでます。午前7時10分、毎朝の寝室風景です。「がんばろうね、今日も」と電動ベッドを操作、高さ32センチ、上半身70度に起こして、両足を床におろし両脇に両手をさしこんで一気に車椅子に移します。文字どおりの瞬発力です。

写真
リハビリ特訓に懸命の有田和子さん(大山崎町の自宅で)
 余談になりますが、筋力衰退の老躯(ろうく)には、これが案外の重労働です。この6月、右手の「帯状疱疹(ほうしん)」に見まわれ、箸も持てない激痛のなか、「お控えなすって」スタイルの3週間を夢中で過ごしました。毎日、歯を食いしばって車椅子を押しました。ついには、東京の孫たちまでも加わる一家総動員でなんとか危地を脱しました。が、4カ月すぎた今でも鎮痛・抗炎症剤をはったり、鍼灸(しんきゅう)治療をつづけています。

 東京在住の長男、有田芳生が、私の著書に闘病初期の頃の母について書いています。

 「あるとき、言葉も少なくなってきた母がつぶやいた。"生きてるうちは頑張らんとなあ"…。いまでもその思いを心のなかでくり返しながら病魔とたたかっているのだろう(有田芳生著「一生懸命生きてます」)

 けだし、ピッタリのリハビリが水・木曜日です。「アリタさん歩きますか?」「肩もって下さい」と理学療法士さん。ズボンの両脇をしっかり握ったとたんにズボンが吊り袋に変わり、リビングから寝室までの往復50歩ほどを「歩き」ます。そう、抱えてもらって左足は踵(かかと)から、右足はつま先から、1〜2、1〜2と、一生懸命に「歩き」ます。

 それからベッドに腰かけて柔軟体操20分。そして、また、「帰路」を「歩き」ます。総じて四肢、体幹、筋力維持の特訓です。

 「すごく重いでしょう。何かコツがあるんですか」「重くないです。痛くない、こわくない、動きにあわせて、と、心がけるようにすれば無理になりません」、との返事でした。非力の老爺(とうや)にはとうてい真似のできない「芸当」のように思えます。

 車椅子になってから、もう3年。右半身不随は痛ましいほどです。しかし、左足を主にした立位力が残っています。だから、車椅子への移乗作業とか、トイレを活用しての自然排便などもできるのです。二足歩行のリハビリこそ、まさに人間の原点への挑戦、ガンバリズムの面目躍如です。

 パラリンピックの父、グッドマン医師(1899〜1990年)は「失ったものを数えるな、残ったものを最大限に生かせ」と言いました。

 わたし達は、体の自由や会話の楽しみなど、ほんとうに多くのものを失いました。数えていると涙がこぼれてきます。だから後ろは見ないようにしています。

 とはいえ、まだ立位力も嚥下(えんげ)力も、また、春日のような人柄や、周囲をほっとさせる笑いなども残っています。これらの特質を大切に、今日も、また、生きてるうちは頑張らんとなあ、と懸命の二人三脚です。


写真 ありた・みつお

1930年、島根県生まれ。50年鳥取農林専門学校卒業。
51年京都府に採用され、60年代に府職員労働組合書記長など歴任。74年、立命館大学経済学部非常勤講師として公務労働論などを講義。78年府を退職。「住民自治と公務労働」、「物語 京都民主府政」など著書多数。京都府大山崎町。84歳。