ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
老老介護を生きる

4. 介護5年生の終わりなき宿題

セクト主義からの脱却

有田 光雄



 2010年6月28日、在宅介護スタートの日です。介護度4から5へのほぼ1年、まるで急坂を転げるような病状悪化でした。その急速な変化の現実になかなか意識がついていきません。

 まだ歩行器の使用で歩いていた頃のことです。身体を動かさなくなったし、食事の量も減ったりして、ひどい便秘におそわれました。それを、下剤で解決しようとしたから大変です。朝は大で昼は小でと、一日に何回も衣服の汚染を処理しました。そんなことから、いらいらして一寸したことで大声をだしたり、粗暴なあつかいをしたりで、「乱暴にしないで」「おこらないでね」「パパはキツイ」などと、抗議とも何ともつかない声をあびました。そんなときはきまって終日、激しい自己嫌悪に落ちこみました。

 翌年5月、転倒による第二腰椎圧迫骨折での入・退院を契機に不本意なマイナス現象にピリオドを打ちました。これまでの介護理念と姿勢に根本的なメスを入れて反省したからです。

写真
闘病2年目の秋、ほほえむ有田和子さん
 相変わらず便秘とのたたかいはつづきました。が、どんな“失敗”でも、「お通じがあって良かったね。頑張ろうね」と、励ましながら処理するようになりました。

 世上に、セクト主義(宗派主義)とよぶ特殊な思想・行動形態があります。相手の立場を無視して、ある一定の規範をもとに「こうあるべきだ」とか「こうあるはずだ」とか、あるいは「でなければならない」を押しつけることです。「べき」にしても「はず」にしても、あるいは「ならない」にしても、いずれも願望、期待、希望の表明ではあっても実態からはなれています。

 介護世界でもまったく同じことです。たとえば「失禁すべきでない」とか「食べるべきである」、あるいは「眠るべきではない」などと考えたところでどうしようもないことです。実態からはなれています。実態からはなれた行動はかならず失敗します。実態に向き合わない行動には根拠がないからです。

 わたしは、こうしたあまたの苦い経験から学んで、介護世界のセクト主義ときっぱり手をきりました。そして、押しつけ介護はダメ、引きまわし介護もダメ、すべてが病気の結果であることをしっかり頭の中にたたきこんで、いつも寄り添い、励ますような介護を心がけるようになりました。

(イ)自分だったらどうして欲しいか、欲しくないかを考えること。

(ロ)現実をしっかり受けとめ、実態にあわせた介助をすすめること。

(ハ)すべてを病気の結果からと理解し、何ごとにつけ激励すること。


 とはいえ、セクト主義はいつでも、どこでも、少し油断するとすぐに頭をもたげてくる難病のようなものです。だから、つねに意識して乗り越えるようにしなければすぐもとにもどってしまいます。その点では、介護5年生にとっても、これは終わりのない宿題なのかもしれません。


写真 ありた・みつお

1930年、島根県生まれ。50年鳥取農林専門学校卒業。
51年京都府に採用され、60年代に府職員労働組合書記長など歴任。74年、立命館大学経済学部非常勤講師として公務労働論などを講義。78年府を退職。「住民自治と公務労働」、「物語 京都民主府政」など著書多数。京都府大山崎町。84歳。