京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●老老介護を生きる
5. 笑顔とり戻す生への挑戦胃ろう手術ふみ切る有田 光雄
「お母さんの笑顔にはかえってこちらが励まされます」。
とは、ほとんど毎日、早朝介護に来る若い助っ人さん。また、看護師さんの去年の年賀状にも、「お母さんの笑顔に励まされています…」と書いてありました。
顔にはその人の人生が凝縮しています。顔は人生そのものです。顔はその人の精神状況を正直に映しだします。難病とたたかう人の顔は、寂しい顔、我慢の顔、焦りの顔、怒りの顔のはずです。だから、人々はこの人の笑顔からショックをうけるのです。 「ああ、この人は苦しみのなかでこんなに優しく笑っている。健常の自分も負けてはいられない」と、あらためて自分をふりかえるのではないでしょうか。 それは、順調な在宅介護の日々で、最近の漸進的変化を喜んでいるときの急変でした。旧臘(きゅうろう)、12月8日の朝のことでした。 その朝、食卓についたのですが、急に嚥下(えんげ)ができなくなりました。それでも、何とかバナナジュース少量、薬も飲んで、2日間ほど頑張っていました。が、3日目の10日に決断して長岡京市所在の総合病院で受診、嚥下ストップの原因は、「脳橋梗塞」の発症でした。 2年半前の5月に入院したときにも主治医だった女医長さんは「2年半もよく頑張りましたね。なかなかできないことです。梗塞が大きければ命にかかわるところでした」と、介護の労をねぎらってくれました。 しかし、血圧の異変を軽視して大事を引きおこした自責の念は消えません。幸い、命の危機は去りました。お昼には、少量の重湯やジュースを嚥下し、月光のような笑顔が戻ってきました。が、点滴と鼻管チューブでの栄養補給の姿はたえがたいものでした。 主治医から、「胃ろう」(おなかに穴を開けて胃に管を入れ水分や栄養をとる方法)の問題提起があったのは1週間ほどしてから。このまま終末にむけての過酷なカウントダウンに耐えるか、それとも「胃ろう」をつけて、なお生命の可能性にかけるかの重い決断を迫られました。決断の契機となったのは、やはり、鼻管チューブの辛い環境の中でも消えない笑顔でした。
看護師や医師はじめ医療労働者の皆さんには頭がさがります。20代の看護師は夕方5時に勤務を終え、いったん帰宅して深夜勤。朝の9時まで働いていました。白衣の天使はたしかに健在していました。それにしても、「医療・介護の充実」を公約しながら、選挙が終わったとたんに医療、介護・生活保護費の大削減とは、まったくいただけません。 ともあれ、介護6年目に突入。新春の1月18日退院。もう一度、最愛の人の笑顔をとり戻す生への挑戦です。 ありた・みつお 1930年、島根県生まれ。50年鳥取農林専門学校卒業。 51年京都府に採用され、60年代に府職員労働組合書記長など歴任。74年、立命館大学経済学部非常勤講師として公務労働論などを講義。78年府を退職。「住民自治と公務労働」、「物語 京都民主府政」など著書多数。京都府大山崎町。84歳。
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