ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
統合失調症を生きて

まだ社会的認知が十分進んでいない統合失調症の当事者である森実恵さんが
自分の生活振りなどを紹介しながら社会的偏見の是正を訴えます。

幻聴がもたらす精神的苦痛


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舞鶴湾を望むフレンチレストイラン「ほのぼの屋」(舞鶴市大波下)は一流シェフを擁し、遠方からくる客も多い人気レストランだ。ここでは精神障害者が多く働いている。接客、調理補助、清掃など多様な仕事をこなす。
 統合失調症の主な症状は幻覚と妄想です。その中でも特に顕著な症状は幻聴でしょう。音源がないにもかかわらず、いろいろな声が聴こえてくる症状で、多大な精神的苦痛をもたらします。

 まず、音が人に与えるストレスを想像してみてください。自分の家の前に高速道路が通るようなことになれば、引っ越しを考えるかもしれません。道路工事をしている横で眠ることは不可能でしょう。また、隣人のピアノの音がうるさいという理由で殺人事件が起きたこともあります。このように人の声でなく、その他の雑多な音が四六時中聴こえてくるだけでも、人は大きな苦痛を感じるわけです。

 統合失調症の場合も、音楽や機械の音などが聴こえることもありますが、ほとんどの場合聴こえてくるのは人の声です。今度は思春期の子供たちに起こりがちな“いじめ”を想像してみてください。学校に行くと「ばか、きもい、死ね」と言われる。それが毎日続くと、暴行を受けたわけでもないのに、不登校になり、最悪の場合は自らの命を絶ってしまうわけです。

 統合失調症の人の頭の中では、いつも自分のことを悪く言う声が聴こえ、四六時中脳内いじめを受けているような状態になります。24時間「ばかとか死ね」と言われる、この精神の拷問に耐えることができる人は少ないのではないでしょうか。

 私も「死ね、死ね」の嵐に巻き込まれ、何度か自殺未遂をしました。また、閉鎖病棟に入院したこともあります。

 次に幻聴が一般的にどのようなプロセスをたどり、患者の命を奪ったり、あるいは衰退していくのかについて説明したいと思います。

 まず、最初は第三者の声である場合が多いようです。三人称幻聴(彼、彼女、彼ら)が自分の悪口を言っている声が聴こえてきます。電車にすわっていると、5、6メートル離れたところにいる人が自分のほうを見て笑っている。「リストラにあったのに、堂々と電車に乗っているのか、ばかやろう。生きている価値もないから、死んだらいいのに」というような声が聴こえてきます。

 それでも、患者が死なずにいると、声は命令形に変わっていきます。二人称幻聴「おまえなんか死んでしまえ。死ね、死ね」と繰り返すようになるわけです。ただ、この時点では、幻聴は他者の声として認識されやすく、患者も死んでたまるかと意志の力を対立的に発揮する場合もあるかと思います。ただし、病気であるという認識があっても、戦い抜けるほど生易しいものではありませんが。

 そして、この先にもっとも恐ろしい幻聴である“思考化声”があります。一人称幻聴と私は呼んでいるのですが、幻聴が患者の考えを完全に奪い取り、「私は死にたい。私には生きている価値はないので、明日の朝5時に自殺を決行しよう」と言い出すのです。

 この時点で自死してしまう場合もありますが、急性期を脱すると幻聴は無人称になってしまいます。患者との距離も遠ざかり、“他人”ぐらいの疎遠さになってしまいます。最後にはただ無意味な言葉を繰り返す幻聴の残骸、がらくたのようなものだけが、頭に残ります。この時点で完治ではありませんが、激しい症状が消えて落ち着いた状態、すなわち“寛解”になります。

森 実恵(もり みえ)氏
大阪府在住。2006年にリリー賞(精神障害者自立支援活動賞)、07年に糸賀一雄記念賞、09年に部落解放文学賞を受賞。著書に「心を乗っとられて」(潮文社)「心の病をくぐりぬけて」(岩波ブックレット)「なんとかなるよ統合失調症」(解放出版社)。