京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●やすらぎトーク
ねむの木学園園長
今日4月6日は、ねむの木学園が生まれた日です。思い出の日に、皆さんにお話しできることを、とってもうれしく思います。あれから40年がたちました。私、歌を歌い始めたころから、相手の立場になって考える優しい人になりたいと思っていました。これは小さいころに母からもらった気持ちです。そうして子どもたちに愛というボールを放ったの。子どもたちはそのボールを受けて、愛でみごとに返してくれました。絵と音楽は子どもたちの才能を引き出してくれました。私は今も愛のキャッチボールを続けています。
大事なのは、集中すること。集中することを覚えたら、その人の感性を伸ばせるような気がします。算数ができなくても、難しい漢字を知らなくても、表現することができたら幸せだと思います。そのために、いい音楽を聴いてもらい、いい絵を見てほしい。 子どもたちはここにいる間に優しくなっていきます。この間も、体調が悪くて休んでいたら、みんなでお見舞いのカードをくれました。すぐ、何か“人のため”っていうことはいいな。うれしかった。 《宮城さんは、1975年と81年の2回、KBS京都でチィリティーテレソンを行った。日本のテレソン番組の先駆けである》 私の好きな京都のためにやるなら命懸けでやろうと思いました。大きな反響があったし、お金も集まった。素敵な舞台でした。 京都はいい思い出がいっぱい。「ガード下の靴みがき」がヒットしたあと、すごくハードな生活が続いたの。そのころ、少しでも休めたら京都や奈良へ行って、お寺や神社を回りました。京都は逃げるとこだったの。気持ちが休まるし、私にやすらぎと文化をくれました。時々、京都へ行きたいわ。 《学園をつくる前、宮城さんはオランダやドイツ、アメリカの障害者施設を視察した。その中の、オランダのヘット・ドルプという村は、施設のほかに教会、銀行、美容室、スーパーなどがあり、地域の人も利用している。「こんな村をつくりたい」。これが宮城さんの目標となった》 外国のいろんな施設を見て回って、子どもの家だけではいけないと思ったの。だんだん自立していくにはいろんなものがなかったらダメでしょ。それで40年かかって私もいろんな施設をつくりました。まだ、村は建設中です。 40年前、この学園をつくったとき、ハンディのある子の養護施設は日本で初めて。日本の福祉はそれぐらい遅れていたんです。私、日本の福祉って日本の経済と同じと思ってる。福祉、福祉といってた時があったと思ったら、今は福祉にちょっと冷たい。バブルに沸いたあと急降下した日本経済と同じね。日本人は、一人一人は優しいのに、どうして組織になると温かさがなくなるのかしら。障害者自立支援法もそう。まだ穴だらけです。政治も法律ももっと優しくなってほしいなと思っています。
みやぎ まりこ (次回5月4日は京都大学客員教授本庶佑さん) |