●やすらぎトーク
柏原病院の小児科を守る会代表
丹生裕子(たんじょう ゆうこ)さん(2008/08/12)
守る会の運動に参加する前は、お医者さんは別世界にいる人のような感じでしたが、この1年余りでずいぶんと変わりました。地域医療への関心が高くなりましたし、お医者さんも普通の人なんだと実感するようになりました。
病院に勤務されているお医者さんの大変さ、またそのご家族のことも思いやることができるようになったと思います。
普通の人間関係大切
お医者さんも地域住民ですから、お互いに協力していきたいのです。安心して暮らせる地域づくりをするという点で、目標を同じくできる「横の関係」になってきたという感じを持っています。身近なお医者さんと、人間として信頼しあって思ったことを伝えあえる、普通の人間関係であることの大切さを、会の活動を通して知りました。
《丹生さんたちが地域の中核病院である兵庫県立柏原病院の小児科が、存廃の瀬戸際にあることを知ったのは古いことではない。全国的な勤務医不足のなかで小児科の医師が実質1人となり、負担の大きさに辞職を決意したことを地元紙の報道で知ったのは昨年だ。小児科が消えれば密接な関係の産婦人科もなくなる。地元で子どもを安心して産める場所がなくなるというのが、最初の危機感だった》
会ができたのが昨年4月で、小児科医の増員を求める署名活動が始まり、私も参加しました。疲れている小児科の先生にこれ以上頑張ってとは言えないな、というのが皆の気持ちでした。
署名はずいぶんと集まりました。約5万5千人です。地元の丹波市と隣接する篠山市を合わせても人口は11万人程度ですから。もちろん県に提出したのですが、ほかにも県立病院はたくさんある、柏原だけを特別に支援することはできないとおっしゃるばかりで、期待した手応えはありませんでした。
それで、署名ではだめなのかな、行政に頼るだけでは解決しないのかな、といったんは落ち込んだのですが、だったら自分たちでできることをしよう、と思うようになりました。署名提出はゴールではなく新たな出発点となったのです。
《メンバーの1人はこんな体験をしていた。ぜんそくの息子が発作を起こし、柏原病院に駆け込んだが、他の患者たちであふれていた。午後8時に病院に行き、実際に診察が受けられたのは翌日の午前2時、入院して病室に入れたのは午前4時だった。夜間の救急に軽症の受診者が増え、緊急患者が診てもらいにくくなる「コンビニ医療」の現実だ》
病院の厳しい実態
地域にとってかけがえのないお医者さんをもっと大事にする住民であるべきではないか。病院の厳しい実態をもっともっと知ってもらいたい。行政よりも地域への働きかけのほうが重要だ。こんな思いから、私たちの活動は、先生たちの大変さを知り、自分たちの行動を変える活動へと変わったのです。
コンビニ医療を控えよう、かかりつけ医を持とう、お医者さんに感謝の気持ちを伝えよう、の3つのスローガンを掲げました。
でも私も母親ですから、様子がおかしい子どもを抱えて病院へ走る家族の気持ちはよく分かります。それで会では小児科の先生と相談しながら、夜間に病院に行くべきかどうかを判断するための「フローチャート」をつくりました。これは会のホームページからダウンロードできます。
フローチャートと絵で見る応急処置などを掲載した冊子「病院に行く、その前に」も作成しました。丹波市が乳幼児を持つ家庭に配布したほか、全国から多数の注文がありました。
《会の活動は大きな反響を呼び、地域医療の崩壊を危ぐする兵庫県内や千葉県内の住民との交流も始まった。住民理解がある場所で働きたいという医師らで柏原病院小児科の医師は5人に増えた。夜間や休日の患者数も半減した。地元では自治会が勉強会を開いたり、開業医らが医療再生ネットワークをつくるなど地域医療への関心が高まっている》
私たちはごく当たり前のことをしただけと思っています。反響の大きさには驚きました。一人一人の心がけの大切さをあらためて実感しました。現実をよく知る自覚した住民が増えれば地域は変わります。
地域医療の厳しさはこれからも続いていくと覚悟しています。地域での実質的な医療の質がどう確保されるのかが一番大きな問題です。住民や自治会、開業医、病院の医師、みんなが一緒に取り組めるモデルケースを、ここから発信できたらなあと考えています。
たんじょう ゆうこ
1971年、愛知県生まれ。大阪外国語大を卒後、結婚して西宮に住む。阪神・淡路大震災で被災して丹波市へ。小学生三児の母親。市営住宅に住み、週2回はパートに出る。2007年7月から守る会代表。
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