「あほか! おまえは命と声を天秤にかけてるんか!そのこと自体がおかしい!」。2008年春、私はこの言葉で気管切開を決心しました。
06年12月に原因不明の神経性難病を発症し、車いすでの生活が始まりました。まだ同志社女子大音楽学会《頌啓会》の特別専修生として、声楽を学んでいるときでした。今までできていたことができなくなったもどかしさの中で悲観することもありました。しかし、恩師・高橋道子先生の「立てなくなったかもしれないけれど、歌うことはできるでしょう」という言葉で、車いすに座りながら歌うことを始めました。「私には歌うことが残されている」とうれしく思っていました。
そうやって何とか前を向こうとしていた矢先、私に新たな症状が出てきました。昼夜問わず起こる中枢性の無呼吸発作です。無呼吸状態になると、人工呼吸器が必要でした。発作が起こるたびに病院で人工呼吸器をつけ、治まれば外すことを繰り返しました。何度目かのときに主治医に、「もし家に一人でいたり、病院から離れている場所で発作が起これば、助からないかもしれない」と言われました。
解決策として提案されたのが、「気管切開」でした。気管切開とは、気管に手術で穴をあけ、そこにカニューレという管を挿入することで、そこからの人工呼吸を可能にするというもので、家で人工呼吸器を使うことができます。気管切開をすれば安心して家で暮らすことができるということで、とても良い手術だと思いました。
しかし大きなデメリットもあると言われました。気管切開をすると声を失うというのです。人間は声帯に空気を流して声を出していますが、その下で気管切開をするために、声帯には空気が流れなくなってしまいます、その結果、声が出なくなるということでした。それを聞いた時、「気管切開の話はなかったことにしよう」と思いました。私にとって声は、話すためともう一つ、歌うためのものでもありました。話せない、歌えない生活がくるなんて、考えられなかったし、考えることも嫌でした。
しかし何度も発作は起きました。4日間意識が戻らないときには、両親は主治医から覚悟するように言われたそうです。お葬式のことを考えたと聞きました。これではいけないと思いましたが、一人では結論を出せませんでした。友達に相談しました。そして、怒鳴られました。そのことで決心をすることができました。友達の支えは大きなものでした。
そして一番大きな支えはやはり家族です。両親は、障害がある私を、「働かざる者食うべからず。おまえにしかできない、伝えられないことをしに行くのだから、朝が早いだの文句を言わないで早く行きなさい!」と送り出してくれます。特別扱いはしません。それが両親なりの応援の仕方なんだろうと思います。
人は一人では生きていけません。お互いがお互いを思いやれることが大事なんだと思います。