ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。

前例がなければ作ればいい

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

【2】何にでも挑戦
歌っていけないわけじゃない

青野 浩美さん



 「私は青野家の長女として京都に生まれました。翌年に妹が、その3年後には弟が生まれました。小学生時代の習いごとは、水泳とバスケットボール。家では母にピアノを習っていました。中学・高校では、吹奏楽部に入部します。小学3・4年生の担任の先生の影響でした。高校生になって、母の師匠でもある高橋道子先生に声楽を習いに行きました。音楽大学に行き、音楽の先生になって、吹奏楽部を指導するのが私の夢でした。


京都府高等学校選抜バンド中国演奏旅行で演奏する青野さん(2000年8月16日〜21日、中国・西安市、本人提供
 2002年、同志社女子大音楽学科に入学しました。女子大という今までに経験したことのない異様な雰囲気に圧倒されながらも、楽しい学生生活を送りました。中でも、隣の同志社大の男子学生に間違われ、校門で3回も止められたのは今では良い思い出です。Tシャツにジーパン、リュックにスニーカーで通っていたので仕方ありませんね。そして卒業と同時に、音楽学会の特別専修生になりました。

 卒業後1年間、さらに声楽を学び、その後は念願の教師になろう。そう思っていました。それには、両親が影響しています。両親は共に中学校の教員で、教科は父が体育、母が音楽です。2人とも実技科目の教員だからなのか、わが家では「やらずに無理だと言うことはダメだ」と言われて育ちました。何でも挑戦してみることが大事だということです。

 小さいころからいろいろと挑戦しました。良いことも悪いことも…。兄弟の中でも特にやんちゃだった私は、幼稚園の友達を全員泣かせたことがあるという不名誉な記録も持っています。しかし、この教えが今の私を作ったとも言えるのです。

 23歳で原因不明の神経性難病を発症し、車いすでの生活になりました。そして25歳で気管切開をしています。気管切開をすると、声を失うと言われています。でも、命と声を天秤(てんびん)にかけること自体がおかしいという友達の言葉で決心し、もう一度詳しく説明を受けました。

 「気管切開をすると声を失います。でも、スピーチカニューレを使えば、しべることができるかもしれません。ただ、スピーチカニューレを使っても声が出ない人もいます。そして、もし声が出てもとても聞き取りづらい不明瞭なものです」。そう聞いた私は、「歌うことはできますか?」と聞きました。答えは「無理です」でした。

 理由を尋ねると、「スピーチカニューレを使ってしゃべっている人はいます。でも、歌っている人はいません」ということでした。私はそう聞いてうれしくなりました。「気管切開をしたら歌ってはいけないわけじゃない。挑戦しても良いんだ。そしてもしスピーチカニューレで歌えるようになったら、私が前例になれるんだ」と思ったからです。

 自然とそう思えたのは、きっと小さいころからの「何にでも挑戦してみなさい」という教えが私の中に確実に息づいているからでしょう。


あおの ひろみ
1983年生まれ、京都市出身。
同志社女子大音楽学科卒業。同大音楽学会≪頌啓会≫特別専修生修了。 23歳の時に原因不明の神経性難病を発症し、25歳で気管切開をする。 現在、声楽家としてコンサートに出演するほか講演活動を行う。 著書に「わたし“ 前例 ” をつくります」(クリエイツかもがわ)。