ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

障害にさせぬ環境実現を


社会福祉法人「全国手話研修センター」
常務理事

小出 新一さん



 手話通訳を中心に、障害者福祉の世界へ飛び込んで半世紀が過ぎました。当初、耳が聞こえない人への支援や権利保障の制度は全く未整備で、社会の差別や無理解が、聞こえる人との間に高い壁を作っていました。

 50年後の今は、全国の400近い自治体が手話言語条例を制定する時代です。条例は両者の壁を除き手話を通じ共生を図る狙いで、まさに隔世の感があります。


「耳が聞こえないなどの障害を社会の力で打ち消し、障害にしない環境づくりが肝要」と話す小出さん(9月24日、京都市右京区嵯峨天龍寺広道町・全国手話研修センター)
 先人たちのたゆまぬ努力で、この間に改革が進んだのです。私が働く全国手話研修センター(京都市右京区)も、その一つ。手話通訳の普及を目ざす関係団体の運動が実り2003年に開所しました。基礎レベルの手話奉仕員から都道府県認定の手話通訳者、厚労大臣認定の手話通訳士とその講師まで含め、養成と研修の拠点です。手話通訳者全国統一試験や全国手話検定試験を担い、常に技能の向上とレベルの均一化を図っています。

 私と手話通訳の出会いは学生時代、先輩に勧められたのが最初です。京都ろうあセンター(現・京都市聴覚言語障害センター)に通い、手話で喜々として話すろう者の方々に目を開かれ、彼らを先生に技術を習得したのです。

 大学卒業の間際、綾部市で初の手話通訳職員の募集があり受験して市福祉事務所に務めました。聞こえない人たちの生活を助ける通訳やケースワーカーなど、貴重な体験を得ました。縁あって京都府に移ったのは1977年です。

 府では聴覚障害や障害者スポーツの担当職員になり、初仕事はバリアフリー基準の策定でした。知事や部長のあいさつを手話通訳するのも仕事で、蜷川虎三知事の「岡っ引き」という言葉を訳すのに冷や汗をかいたのを思い出します。88年、全国身体障害者スポーツ京都大会の開会式で、毎回立ちっ放しになる選手全員に、いすに座ってもらう府独自のアイデアを実現させた時は、会場全体が感激に包まれましたね。

 聞こえない人の権利と生活を守る「ろう運動」が広がったのは60年代後半からです。74年には「全国手話通訳問題研究会」(全通研・京都市上京区)が設立され、これが手話通訳普及のエポックになりました。国内の手話通訳リーダーが経験を持ち寄り研さんする全国手話通訳者会議が発展した組織で、私も設立メンバーに加わったのです。

 全通研は会員が後に1万人に達し、手話や手話通訳に関する情報を集積して研究誌を発刊する一方、手話通訳の制度化に大きな役割を果たしました。私は事務局長を務めるなど、全通研の活動には長くかかわりました。

 制度や法律が整ってきたとはいえ、障害がある人の安心な暮らしを保障する環境づくりは道半ばです。肝心なのは「耳が聞こえないなどの障害を、社会がツールやサービスを整えることで障害にさせないこと」。実現へ向け私ももうひと働きするつもりです。


こいで・しんいち
1948年、岐阜県生まれ。立命館大卒。
72年、綾部市に手話通訳職員として就職。5年後、京都府職員に転じ聴覚障害者福祉などを担当。この間、全国手話通訳問題研究会の設立に参加した。同研究会事務局長を経て2008年から全国手話研修センター常務理事。著書に「手話知らんですんません」(1981年)ほか。