ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。


光失っても世界は広がる


滋賀県網膜色素変性症協会
会長 田中 嘉代さん



 「今は見えていても、視力低下は進み失明もある。確立された治療法はない」。人生半ばで、自分が網膜色素変性症と分かり、残りの半生を思い絶望と焦燥にさいなまれた日々を忘れたことはありません。徐々に光を失っていく苦しみは、耐えがたいものです。


「発病後は何も言わず、ひたすらささえてくれた」という夫の齋(いつき)さんと談笑する田中嘉代さん(東近江市・自宅)
 それでも希望を捨ててはなりません。網膜色素変性症は、遺伝子変異が原因で網膜異常を起こす進行性の病気ですが、近年は人工多能性細胞(iPS細胞)による再生医療や遺伝子治療など治療法研究は急速に進歩しています。1人で悩まず、ライトハウスのような視覚障害専門の福祉施設などで適切な訓練や研修を積んで自信を取り戻す方法もあります。さらに患者同士が手をつなぎ、生きる力を高め合って閉じかけた世界をこじ開けることもできるのです。

 私たち滋賀県網膜色素変性症協会(JRPS滋賀)は、患者と家族、治療法研究者、支援者でつくる団体です。活動理念は「治療法の確立と生活の質(QOL)の向上」。相談や交流、研修、体験会などを通じて知見を広め、社会への啓発にも努めてきました。現会員は70人いますが、県内にはこの病気(指定難病)で300人弱の登録があり、より多くの患者さんに仲間に加わっていただきたいのです。

 私は東近江市の神社に嫁ぎ7人家族で暮らしていました。目の異常に気付いたのは35歳のころ。病院でも原因不明でしたが、やがて診断が付き47歳で障害者手帳をもらいました。当時、3人の子どもはまだ小さく、義父の介護もしながら、失明の恐怖で約10年は心が深く沈んだままでした。

 ある日、ラジオで京都ライトハウスの存在を知り通所を決断。早朝に家族の食事などを整え自宅から電車で2時間余りかけて通いました。1年半で点字と英語点字、パソコン、白杖(はくじょう)歩行などを習得しました。教室では、中途失明した中高年の人たちが、頑張る姿を見て「私も」と気を取り直し、頭の中に地図さえあれば白杖で出かけられるようにもなり、自信が湧いてきたのです。

 JRPS滋賀には、発足準備会から参加。2003年、役員に加わりました。20年の9月には会長として協会本部(JRPS=東京)の行事「世界網膜の日in滋賀」を開催。治療法を追究する4人の研究者へ研究費を贈呈しました。研究費支援は毎年、JRPSの欠かせない活動の一つになっています。

 この病気では職を失う例も多く「もう何もできなくなる」と思いがちですが、大丈夫。外へ出て明るく暮らせる道は必ずあります。私たちに相談してください。

 53歳で光を失った私は、協会活動を通じ多くの人に出会い、かえって世界は広がったと感じます。手縫い洋裁と、京都ライトハウスのサークルで覚えた社交ダンスの趣味は10年以上になりました。近い将来、会長職を次世代に渡した後も一会員にとどまり、苦しむ人たちのお役に立つつもりです。


たなか・かよ
1953年、東近江市生まれ。橘女子大(現京都橘大)卒。24歳で結婚。家族の介護や子育て中に網膜色素変性症が分かる。京都ライトハウスで点字などを習得。2003年、網膜色素変性症協会滋賀支部の創立に参加、19年からJRPS滋賀会長。21年、京都新聞福祉賞を受賞。東近江市在住。同協会090(7090)1483