2024.03.19
2024.03.19
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。
真宗大谷派僧侶 川村 妙慶
私の元には「弔い直しをしたい」という相談が多く寄せられます。コロナ禍から人との交流が制限され、亡くなられた方とのお別れも通夜、葬儀をすることなく火葬場へ直行というご家族もふえてきました。しかし、今になって「後悔しています」とおっしゃるのです。
大切な人が亡くなっても悲しみに浸る余裕もなくさまざまな手続きに追われることになり、冷静な判断もできなくなることもあったでしょう。また、人間はいつかは死ぬとわかっていても、心のどこかには「まだ生きていてほしい」という思いもありますし、今は考えたくないという方もおられるでしょう。
すべての手続きを終えた今になって急に寂しくなり、なぜゆっくりお別れできなかったのだろうと後悔が襲ってくる。中には無宗教だから葬儀は必要ではないと考える方もおられます。それは心のよりどころを仏という存在に置くのではなく、自分の知性や良心や意思を絶対的に信頼するという意味でもあります。しかし、いざ悲しみに遭遇すると知性は役にたつどころか、うろたえるのが人間なのです。頭の中では賢く強く生きなければと思っても人間はいざとなると弱い存在なのです。
先日ある方が「信心深い能登の方が地震に遭うなんて仏は何もしてくれないのですか」と訴えてこられました。仏さんは人間の都合だけを叶(かな)える存在ではありません。嫌なことがあると「縁起でもない」とおっしゃる方がおられますが、縁起は条件しだいでどんなことも起こる事だとお教えくださるのです。縁は良いこともありますが、自分の思い通りにはならないこともお教えてくれるのです。
「形は滅びても人は死なぬ」(金子大榮)。亡き人とは直接肌の温(ぬく)もりは感じられなくても、心の中でもう一度、「出遇い直す」ことができるのです。
春のお彼岸です。静かに阿弥陀さまの前でお念仏申しましょう。その傍(そば)に仏となったあの人がおられるのですよ。
かわむら みょうけい氏
アナウンサー。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。