2024.12.16
2024.12.16
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。
立命館大名誉教授 津止 正敏
ケアは社会存立の基礎的条件、とその意義を確認した「京都市ケアラー支援条例」が11月11日の介護の日に施行された。ケアを私事として家族責任の範疇(はんちゅう)に閉じ込めてきたこれまでの主流規範からするとかなり尖(と)がったケアの定義だ。
これまで家庭・家族(=女性)が一身に担ってきたケア等の生活領域を、社会科学では「再生産」として概念化し批判的分析の対象としてきた。妊娠・出産や育児・介護・看病その他の世話、炊事・掃除・洗濯等の家事、家族形成や休息、コミュニティーなど生活全般が再生産に包摂される。いわば人と社会のメンテナンスに関わることだ。
経済指標に直結する「生産」の領域に対して、ケアに象徴される人のメンテナンスはプライベートなものとされ家族・家庭にほぼ丸投げされてきた。この分野に公的資源を投入することはまるで浪費・無駄のように扱われ、福祉への低劣な社会的評価を生み出す土壌ともなってきた。積年の付けが回ったのだろう、少子化、人口減少、労働力不足、コロナ禍等々は、皮肉にも再生産が公の課題であることを知らしめた。
私の授業(理工学部の教養科目)でこのようなことを話したら、ある学生が次のような感想を記した。
「人のメンテナンス」を自分なりに考えた。自分の専門の機械の設計製造では、当たり前のように経年劣化や摩耗を想定して「メンテナンスの必要」をコストに組み込む。しかし、人の場合は各自の感情抑制能力やマネジメントに委ねている。心身の疲労は「存在しないもの」として扱われてきたことに考えが及んだ(機械工学3回生)。
人間よりも機械の方がしっかりメンテナンスされている、というのだ。「わが亡き後に洪水よ来たれ」とばかりに、目先の私益に拘泥し、あらゆる分野で人と社会の再生産をサボタージュしてきた社会の抱える構造的問題である。このことへの異議申し立てをケアの領域から発信しようではないか。「尖がった」ケア定義はそう言っているようだ。
つどめ・まさとしけ氏
1953年、鹿児島県生まれ。立命館大学教授。大学院社会学研究科修士課程修了。
京都市社会福祉協議会(地域福祉部長、ボランティア情報センター長)を経て、2001年から現職(立命館大産業社会学部教授)。2009年3月に「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」を発足させ、事務局長を務める。著書に『ケアメンを生きる-男性介護者100万人へのエール-』『男性介護者白書―家族介護者支援への提言-』、『ボランティアの臨床社会学―あいまいさに潜む「未来」-』、『子育てサークル共同のチカラ-当事者性と地域福祉の視点から-』など。