ともに生きる [TOMONI-IKIRU]

体を動かす環境が大事

2025.04.07

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滋賀県障害者スポーツ協会会長 原 陽一さん

 右脚の障害にめげず、長く水泳競技を続けた経験も生かしこの40年来、滋賀県の障害者スポーツ振興に携ってきました。

 一昨年、県障害者スポーツ協会の会長を仰せつかり、スポーツを通じた障害者の健康増進と共生社会の実現が責務となりました。大事なのは「体を動かす環境を整えること」だと感じています。


 県内で、家に閉じこもりがちだった障害者が外でスポーツに親しむ契機となったのは、1981年のびわこ国体・全国身障者スポーツ大会(当時)でした。国際障害者年の初年度に当たり、しばらくはスポーツをたしなむ障害者が増えていきましたが、少子高齢化が進んだ近年は、漸減傾向さえ出ているのです。

 今秋は滋賀でビッグイベント「わたSHIGA輝く国スポ・障スポ2025」が開催されます。障スポとは全国障害者スポーツ大会の略で、県に戻って来るのは44年ぶり。再びスポーツ熱を盛り上げるには絶好の機会です。

 個人・団体(身体、知的、精神の3障害)合わせ、県からは約300人の選手が出場。メダルの数よりもまず、各自で設定した自分の目標達成を目ざします。協会としては、大会後にどんなレガシー(遺産)を残せるかがカギ。「有為な人材を残せたら、それもよし」と考えています。

「障害者がスポーツで体を動かす環境を、もっと整えたい」と話す原陽一会長(大津市松本の滋賀県障害者スポーツ協会事務局)

 私は6歳で骨肉腫のため右大腿(だいたい)部から切断。障害を深刻には悩まず、一般選手に混じって中学、高校と部活の水泳に打ち込みました。転機は高校3年で出場したびわこ国体後の全国身障者スポーツ大会でした。

 開会式の選手宣誓を任され、水泳に加えて外国招待選手らと陸上100㍍走の出場機会も与えられ、義足で皇子山競技場を懸命に走りました。大会を通じ、目の当たりにしたのは、選手補助や運営など舞台裏を懸命に支える人たちの姿。「多くの手があって、初めて競技が成り立っているんや」。感動で胸がいっぱいになったのを今も忘れません。

 「この感動を障害のある多くの人に経験してほしい。一般の人にも知られるよう、自分が伝えたい」という思いが募りました。当時から県の障害者スポーツを牽引(けんいん)していたのは、八田智洋さん(故人)でした。協会副会長を長く務めた功労者です。「原には指導者としてずっと関わってほしい」。ある時、社会人になった後も競技を続けていた私に八田さんが声をかけてくださり、この道を引き継ぐ覚悟が固まったのです。

 協会にはいま、「パラスポーツパートナー」の名称で競技指導員から市民ボランティアまで含む約360人登録の支援者組織が誕生。参加機会を増やすための地域事業「スペシャルスポーツの広場」も、東近江市など数カ所で定着してきました。障害のある者が、自分たちの力で道を開く努力を続けてくかぎり、前途は明るいと確信しています。

はら・よういち

1963年、栗東市生まれ。病気のため6歳で右大腿部を切断したが中、高とも水泳選手で活躍。50歳まで競技を続けた。35年間勤めた栗東市役所を昨春、定年退職。2023年から県障害者スポーツ協会会長。昨年の全国障害者スポーツ大会(佐賀県)では滋賀県選手団長を務めた。栗東市在住。