2025.05.05
2025.05.05
書家・随筆家 金澤泰子さん(書家、金澤翔子さんの母)
一人娘の翔子は、この6月で40歳を迎えます。5歳から書の修練を積み、純粋無垢(むく)でエネルギーの迸る作品が数多くの人に愛され、書家として広く認めていただけるようになりました。
9年間の一人暮らしを経て自立を果たした翔子は今、書に打ち込む傍ら、自ら営む喫茶店ウエートレスの仕事にも嬉々(きき)として励み、最高に輝いています。母親の私に「今が一番幸せ」と言わせるまでに成長したのです。
翔子が生まれ、ダウン症と知った時の衝撃は忘れられません。「この子には知能がありません」。医師に告げられ、41歳の私は絶望。数年間は2人で死ぬことばかり考える毎日でした。
微(かす)かな光が射したのは、翔子が5歳になったころ。自宅で開く私の書道教室で、初めて筆を持たせました。「あっ、これは」握る角度、指の位置を見て才能の片鱗(りん)を感じ取ったのです。
少し学校を休む事情ができた4年生の春、般若心経の276文字を特大の画仙紙に書かせる目標を立てました。難字ばかりで一字書くのも至難の業です。心を鬼にして叱りつけ、手も上げました。凡(およ)そ8カ月、母娘とも毎日が涙、涙の苦行でしたが、翔子はやり遂げたのです。あれが書の基礎を体得した瞬間だったと、今にして思えます。

写経の書は、私が教えたからできたのではありません。翔子は、私を「悲しませたくない。喜ばせたい」の一心だけなのです。私への態度と同じく他の人にも接する翔子は、常に思いやりの心で生きているのです。
転機は翔子が20歳の時に訪れました。その6年前に52歳で早世した夫・裕とは「翔子が20歳になれば個展を」と約束済みでした。個展がフタを開けると銀座の画廊は1週間で千人以上が入場する盛況。書家になる目標が定まり、柳田流の楷書を学び始めたり初の席上揮毫(きごう)を披露したのもこのころです。ご縁をいただき鎌倉・建長寺の個展が恒例化すると、その後は各地で作品を披露する機会が相次ぎ、ロンドンやニューヨークでも個展や公演を開くなど翔子の世界は一気に広がっていきました。
ダウン症の子を持つ親御さんから、育て方をよく聞かれます。答えは「子どもを信じ何でもやらせ、できるまで待つ」。むやみに親が手を貸さず、達成感を与えてあげるのです。翔子は時に迷子にもなりましたが、探しませんでした。探すと、子どもを傷つけることも知ってほしいのです。万が一を恐れてばかりでは、ダウン症の子は育てられません。
30歳で一人暮らしを決めた翔子は、自分が住む大田区の商店街で積極的に外へ出て店主さんらと交流。住民多数参加の人的ネットワークを作りあげてしまいました。「翔子版・共生社会」の実現です。「親亡き後」の心配は吹き飛びました。障害を乗り越え地域で生涯、生き抜く自信を培った翔子は私の誇りです
かなざわ・やすこ
千葉県生まれ。明治大卒。書の柳田流家元に師事。1990年、東京都大田区に「久が原書道教室」を開塾。ダウン症の一人娘、翔子さんにも書を教え、希望と自立の道へ導いた。自立をテーマにした講演はのべ1000回を数える。東京芸術大評議員。日本福祉大客員教授。都内在住。