2021.01.18
2021.01.18
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。
立命館大教授 津止 正敏
静かに正月を迎え、そしてサッと終えた。今次の災いが確かに影響しているのだろうが、そればかりでもないようだ。
いつの頃からだろうか。“もういくつ寝るとお正月”と、この日を待ち焦がれる気持ちもすっかりなくなった。私の子ども時代には、親戚・縁者の家々を新年のあいさつ回りに出かけては朝昼晩と杯を酌み交わす大人ばかりだった。子どもも負けず劣らずで、お年玉やごちそう狙いで普段めったに行くこともない縁薄い親戚の家にも喜々として足を運んだ。少々の無礼も自堕落もこの時ばかりは誰にも許されて、あっという間に3日間が過ぎていった。
いま。年末に大掃除する間もなく元旦を迎え、我が家には門松もなく、スーパーは大晦日(おおみそか)と元旦がただ看板替えて客を呼び込む。24時間365日がただ連続し、一瞬の寸断も許されぬような、常に100%全力疾走に駆り立てられるようなこの時代が成す感覚だ。あの清少納言は、大晦日と元旦の間を、「近うて遠うきもの」と言っている(『枕草子』)。たった2日間なのに2年にわたるので遠い、という意味だろうが、それだけでなく当時の大晦日と元旦の装いの見事な切り替わりのことも込めたに違いない。ただの昨日と今日としか思えない私たちのこの環境を嘆きたくもなる。時の変化を実感する機会をもう手にすることは出来ないのだろうか。
ただただ悲観するばかりの中で、元旦に届いた賀状に目を通したのだが、ある卒業生の言葉にハッとした。気軽には会えなくなったが、このような形で近況をお伝えできる文化があることをうれしく思う、とあった。年の初めの儀式、と深く思いもせずに投函(とうかん)していた自分を恥じ入った。1年を振り返りつつ来る年への思いを乗せて友人知人に贈るという大切な装いなのに、と。省察する心をいつも忘れずに、気持ち切り替えて次のステージにジャンプする。新年を迎えるとはこういうことなのだろう。コロナ禍だったからこその気付きでもあった。
つどめ・まさとし氏
1953年、鹿児島県生まれ。立命館大学教授。大学院社会学研究科修士課程修了。
京都市社会福祉協議会(地域福祉部長、ボランティア情報センター長)を経て、2001年から現職(立命館大産業社会学部教授)。2009年3月に「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」を発足させ、事務局長を務める。著書に『ケアメンを生きる – 男性介護者100万人へのエール – 』『男性介護者白書―家族介護者支援への提言 – 』、『ボランティアの臨床社会学―あいまいさに潜む「未来」 – 』、『子育てサークル共同のチカラ – 当事者性と地域福祉の視点から – 』など。