2022.09.13
2022.09.13
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。
もみじケ丘病院院長、精神科医 芝 伸太郎
大過なく幼少時を過ごし、友人関係も良好で、希望通りに進学して優良企業に就職を果たした方が、仕事のつまずきなどでいとも簡単に心を病む場合があります。順風満帆だった就職前までの人生が一変したのですから、ご本人もご家族もひどく当惑されます。
このような患者さんに共通するのは挫折体験がないことです。うれしいとか楽しいエピソードばかりの中で育ち、つらい出来事に対する免疫を全く獲得せず大人になったものと考えられます。もし無菌室内で乳幼児を大人まで育てあげて突然外に放り出したら、通常はさほど危険ではないウイルスや細菌に感染し重症化するのと理屈は同じです。
「打たれ弱い心はどうすれば強くなりますか」は患者さんからよく受ける質問です。私はボクサーを例にとって「リングに上がることです」と答えるようにしています。日常生活がリング上だとしたら、診察室はリングポールの外側で、治療者はボクサーに指南するセコンド役です。相手から受けるパンチを全部避けることはできませんから、パンチを食らうにしてもダメージを最小限にするコツをセコンドはボクサーに伝授します。ボクサーはリング上で打たれながら打たれ強くなってゆくのです。
日常生活は患者さんの心を傷つけもするし、適切な助言を伴えば逆に心をたくましくもしてくれます。あまりに酷な経験は心に消しがたい傷を負わせるから駄目なのは当然として、小さな傷は長期的には心を強靭(きょうじん)にする場合があるのを忘れてはいけません。最も良くないのが大きな傷、まん中が無傷、最も良いのが小さな傷と言えるでしょう。
トラウマと呼ばれるほどの傷は長期間心を病ませるので、傷を回避させる養育自体は正しいのです。ただし、長い目で見れば心の糧になるであろう小さな傷まで絶対に負わせまいとする関わりは行き過ぎです。時代錯誤的な響きのある「かわいい子には旅をさせよ」という格言にはやはり一理あるのではないでしょうか。
しば・しんたろう氏
京都大学医学部卒。兵庫県生まれ。
1991年もみじケ丘病院。2018年より現職。専門は気分障害の精神病理学。