ともに生きる [TOMONI-IKIRU]

国葬に思う

2022.10.10

  • コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

弁護士 尾藤 廣喜

9月27日、安倍晋三元首相の国葬が営まれた。

この国葬については、実施するについて法的根拠がない、弔意の表明を国民に強制することは思想・信条の自由を侵害することになりかねないとの理由で実施に反対する旨の京都弁護士会会長の声明が出されている。

私がこの国葬について一番問題であると考えるのは、人の死後の扱いについて、これほどの差があってよいのかということである。

4年ほど前、千葉県市川市の福祉事務所で、相談室のロッカー内に生活保護利用者などの引き取り手のない遺骨が57体も放置されていたことが報道された。

本来は、生活保護法の葬祭扶助により葬儀も納骨も行われるはずのところ、この市では、火葬は行ったものの、引き取り手がないことを理由に遺骨を放置したままになっていた。その理由は「担当者が代わった際の引き継ぎが十分でなかった」としているが、3年以上放置されていた遺骨もあり、本質は、葬祭扶助等で認められるはずの納骨がなされなかったことにある。

京都市では、このような場合、福祉事務所が市の経営する墓園に納骨しているが、自治体ごとに取り扱いがさまざまであり、全国的には、市川市のような取り扱いは少なくない。この事例が明らかになった後も、国からは、遺憾の意が示されただけで、明確な取り扱い指針が出されず、自治体に丸投げされ、やがて忘れ去られてしまった。

納骨すらなされないまま放置される国民がいる一方、大々的な葬儀がなされた後、重ねて国の費用で概算16億6000万円と言われる「国葬」がなされた。これほど国費支出の差があって良いのだろうか。

少なくとも、全ての人のご遺体に尊厳のある葬祭が保障されてから後に「国葬」の是非が議論されるべきである。

憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等である」と規定しているが、これは全面的に保障されなければならない。

びとう・ひろき氏 1970年京都大法学部卒。70年厚生省(当時)入省。75年京都弁護士会に弁護士登録し、生活保護訴訟をはじめ「貧困」問題について全国的な活動を行っている。