ともに生きる [TOMONI-IKIRU]

許すということ

2024.05.27

  • コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

真宗大谷派僧侶 川村 妙慶

ある女性から「夫が許せません。これからも恨み続けるしかないのですか?」と苦しそうなお顔で投げかけられました。私は「お互いが自立する意味で離婚も一つの選択肢では?」と伝えると、「ここまで我慢したのですから夫より長生きして遺産をもらいたいです」とおっしゃいます。せめて遺産だけでももらわないと恨みは清算できないということなのでしょう。

さて、あなたは人間関係の中で「許せない人」はいますか? 過去、つらい仕打ちを受けると、その人に対して憎悪は募ります。そう簡単に許せるものではないという感情は沸き起こってくるものです。なぜなら許すことで自分は不利、相手は有利になるという不公平さを感じるからなのでしょう。しかし、私はそれだけではない、もっと深いとこで訴えているような気がしてならないのです。

自分が受けた仕打ちを誰からも理解してもらえず、これからも生きなければならない虚無感があるのではないでしょうか。

「煩悩具足の身なれば、こころにもまかせ、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいうまじきことをもゆるし、こころにもおもうまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにあるべしともうしおうてそうろうらんこそ、かえすがえす不便におぼえそうらえ。」(親鸞聖人「御消息集」)

ある念仏者は「許す許さぬは外への視点、視点を内に転ずれば私も許されている」とおっしゃいました。

許さないのは、自分を中心にした思いで常に自分が裁判官となって裁こうとする姿です。それは煩悩に振り回された「不便」(心の痛むこと)な姿なのです。

私にもある人を許せないという怒りが芽生えたことはあります。仏法の力で説得しようとする私を見た師は「妙慶よ! 自分の力で僧侶になったんか! 成らせていただいたんと違うか」と言われた言葉に目が覚まされたものです。許す許さぬということは、人知の及ばぬことなのです。あとは阿弥陀さまにお任せするしかないのですね。

かわむら みょうけい氏
アナウンサー。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。