ともに生きる [TOMONI-IKIRU]

「マルハラ」狂騒

2024.06.17

  • コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

平等院住職 神居 文彰

時代によって表記は移り変わる。平安時代には濁点も読点もない。父は「てて」と呼び、現代でも東北では「だだ」と読んだりする。近年では(文末に「。」をつける)「マルハラ」が、TVテロップを悩ませた。マルハラの理由が怒られているようだとか。

無言喫茶の報道もあった。ジャズ喫茶など極力無言で楽しみたいところもあるが、元々、ろうあの方への配慮と聞く。大変素晴らしく尊重すべきであるが、言語が相手を凌駕(りょうが)する先端道具であることをあらためて思いしらされた。

社会が多様な生き方を認める過程での、ハラスメント過剰のデリケートな状態にあるとも思える。

言葉や動作、対面できない時の文書は、相手と意識を分かち合う人類の叡智(えいち)であるが諸(もろ)刃の剣でもある。

『紫式部日記』の後半は自身でまとめた手紙で構成される。聖徳太子の手紙は唐の皇帝を怒らせることによってコミュニケーションが始まり、源信の母からの手紙は僧をめざす人生の教導となった。

マルハラは発信者の誘導に近いものであったことがわかってきたが、人は他者との関わりの中で生きていくのであり自己確立の脆(もろ)さも浮き彫りにした。

宗教的呼称も生活の中でぶれることもある。15、16世紀の口伝書類で、日本独自に発展した山越図を「やまこへ」と伝えるが、近世儒学者による百科事典では「こし」と表記される。できれば伝来の主体を大切にしたいものである。

『源氏物語』の光源氏は多くの女性を愛し苦難を乗り越えるヒーローだが、宇治十帖の薫は苦悩する青年であり、愛する女性を想(おも)い、一晩一緒に過ごしたにも関わらず中の君と関係を結んでいない。

紫式部は少年時代の頼通を物語に出るような良い男子と記した。道長は多くの妻がいたが、その子頼通は生涯たった一人だけを妻と愛した。読み継がれた物語が頼通の人生に影響を与えたのではないかと想像し、ちょっとほっこりした。

かみい・もんしょう氏
大正大学大学院博士課程満期退学。愛知県生まれ。1992年より現職。現在、美術院監事、埼玉工業大理事、メンタルケア協会講師など。