2025.10.21
2025.10.21
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。
もみじヶ丘病院院長、精神科医 芝 伸太郎
「人から称賛してもらいたければ、人に対して親切にふるまえ」という条件節のある倫理を仮言命法、ただ単に「人に対して親切にふるまえ」という無条件の絶対的倫理を定言命法と呼びます。カントという哲学者による区別です。
私が小学生低学年の頃、他のクラスで大きないじめ事件がありました。PTA会議から帰宅した父は厳しい表情で私に「お前は絶対にいじめをするな」とだけ言いました。「いじめをしてはならない理由」については一切説明せず、指示のみを厳命する父の強い言葉はまさに定言命法だったといえます。「いじめるな」という結論を心に刻みこまれた私は、あとから「いじめをしてはならない」理由をいろいろと自分なりに考えることになりました。

教育では理由と指示の順序が逆になります。最初に理由を積み上げて、「行動Aは正しい」「行動Bは間違っている」という説明がなされます。その説明を根拠として「行動Aをするべきである」「行動Bをしてはならない」という結論が生徒に伝えられるのです。世相を反映してか、「いじめはだめ」「命は大切に」といった道徳教育に最近の学校は力を入れています。
つまり教育は仮言命法的なのです。たとえば「家族が悲しむから、自死はするな」には理由(条件節)が含まれています。では「家族が悲しむから」という前提が成り立たない場合はどうなるでしょうか。
「自分が死んでも家族が悲しまない」ような不幸な人を前にすると、この仮言命法は力を失います。自死を阻止するために別の理由を探さねばなりません。そして新たに見つかった理由もまた、状況次第で否定されるかもしれないのです。
「いじめるな」「自死するな」は本来なら定言命法的な水準にあるべきものです。教育現場において理屈で教えることが無意味とまでは言いませんが、仮言命法の限界は心得ておく必要があります。病んだ現代に求められるのは、定言命法の復権なのです。
しば・しんたろう氏
京都大学医学部卒。兵庫県生まれ。
1991年もみじケ丘病院。2018年より現職。専門は気分障害の精神病理学。