ともに生きる [TOMONI-IKIRU]

鉄と紙と人の肌

2025.11.17

  • コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

平等院住職 神居 文彰

 鉄仏の不思議な魅力に胸を鷲掴(わしづか)みにされている。

 透け肌下を覗(のぞ)き込むような、そこにはガリガリとした、地肌が手の甲を逆さになぞるあの独特の感触である(10代「随身」時代の釜風呂焚(た)きでは背中かな)。

 鉄仏は平安末から鎌倉時代にかけて発生し、尾張から関東にかけての作例が多く著彩(ちゃくさい)や漆箔(しっぱく)像もあるが、念仏寺や大圓寺など京にも古い鋳鉄(ちゅうてつ)仏が現存し、その二躯からはいずれも彩色等は確認されていない。

 親しい仏師から、鉄仏はその素材特性であるバリや力強さから、戦争直後の時代、甲冑(かっちゅう)や武具のイメージを盛り込んだものではないかと聞いたことがある。

 仏にそういったメッセージが込められているのなら、力を誇示したものではなくこれ以上暴力や苦しみに蹂躙されたくはないという切ない希(のぞ)みが背後にあるような気がしてならない。

 手元に室町末の鉄懸(かけ)仏があるが、それは茶釜を製作する釜師の鋳鉄技術によるもので、裏には十文字の雌型(めがた)が残る。

 同室には江戸時代の紙で造られた等身阿弥陀如来が坐る。紙は消息や証文などで表面は金箔(きんぱく)で覆われている。造形には素材選択にも意味があり、素材が日常生活に直結した証左である。

 法然上人は、字を勢至(せいし)(最近翻刻された金剛寺のものでは文殊とある)といい、9歳の時夜討ちに遭い父を亡くしている。その際、小矢をもって敵の眉間に当て以降小矢児(こやちご)と讃(たた)えられる。

 鎌倉武士の末端であり弓矢が当時の主要な武器である。幼少から乗馬やその習練をし一寸(いっすん)動けば眼球貫通で外傷に治まらないことを学ぶ。當麻寺の法然上人像手甲は武士の手である。一度は悪意に力で対抗した上人だからこそ、父からの「敗戦の恥辱、怨みをもつな」と言う最期の言葉は重い。

 日本は宗教による争乱が少ないと喧伝されるが、石山合戦や守屋・馬子等の変事をかみしめてほしい。

 異なる肌合いに対して容赦のない人類の加虐性は、幼少時観たTV特撮番組ウルトラセブンの「ノンマルトの使者」を思い出した。

かみい・もんしょう氏
大正大学大学院博士課程満期退学。愛知県生まれ。1992年より現職。現在、美術院監事、埼玉工業大理事、メンタルケア協会講師など。