ともに生きる [TOMONI-IKIRU]

100歳の青春、社会に恩返し

2025.12.01

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「林元」会長 林 道子さん

 この12月で満100歳を迎えます。女性経営者という境遇から、京都商工会議所女性会をはじめ、各種の女性団体やグループに参加しています。出身校の同窓会や地域女性会の活動にも携わってきました。

 所属団体が行う社会貢献活動に加わる一方、自身で微力ながらチャリティーの寄付などを続けるのは、「少しでも世の中に恩返しを」と考えるからです。

 再三の大けがを乗り越え、100年も生きてみると「ここまで来られたのは、すべて出会った人たちのおかげだ」と思えてなりません。社会貢献活動は、命ある限り続けていくつもりです。

 京都市中京区の染物屋に生まれた私は、23歳で「林元」に嫁ぎました。婚家での同居生活はつらいことも多く、実家の母にある時、「帰りたい」と漏らすと、「帰るのやったら、死んでからお帰りやす」。辛抱する覚悟が定まったのは母の、あのひと言からだったと思い出します。

「年を重ねてもハートは青春で。常に目標を持って体を動かすこと」と話す林道子会長(11月2日、京都市中京区のANA クラウンプラザホテル京都)=提供写真

 「林元」はミシン糸の製造・卸をあるじとする会社で、絹糸から後に合繊糸に切り替え、現在に至っています。私が会社に出るようになったのは子育てが一段落した38歳のころ。事務を手伝い、夫が65歳で亡くなってからは2人の息子が経営を継ぎ、私は取締役会長に就いたのです。

 経営者同士の交流を通じ、国際ソロプチミスト京都―桃花や、プロバスクラブ京都(京都西南ロータリークラブの提唱で設立)に所属。同志社同窓会や堀川同窓会(市立堀川高)にも、欠かさず出席してきました。

 約30年間、会長を務めた地域女性会「梅屋女性会(解散)」では毎年、バザーの収益を京都新聞社会福祉事業団へ寄贈。母校の梅屋小学校跡地にシダレザクラを贈ったこともありました。90歳からは誕生日ごとに、歌と踊りのチャリティーライブを開き、集まった志を事業団の「善意の小箱」に寄せています。

 感謝の気持ちを形にするのは、自身の健康問題とも深い関わりがあります。救急車で運ばれること通算8回。大腿(だいたい)骨骨折が2回あり、うち1回は手術の途中に脳梗塞を起こしました。目が覚めると動けず声が出せません。医師からは「車いすか寝たきりの生活になるかも」と、告げられました。90歳でした。

 絶望の淵に落ちましたが、次々に病室を訪れる友人たちの言葉を聞き「私にはこんなに多くの応援団がいる」と元気百倍になり、リハビリにまい進。10年間休まず続けて、ついに車いすなしで歩けるまでに回復したのです。

 人間は、気の持ち方ひとつです。歳を重ねても、じっとしていてはだめ。心は青春で、常に目標を持って体を動かすこと。私はシャンソンと社交ダンスに長く親しんできました。12月に開く100歳の誕生パーティーでは、「愛の賛歌」などシャンソンの4曲を歌うつもりです。

はやし・みちこ

1925年、京都市生まれ。同志社女子専門学校(現・同志社女子大)卒。「林元」株式会社会長。経営の傍ら、京都商工会議所女性会、梅屋女性会などに所属して社会貢献、ボランティア活動に参画。自身の誕生日や歳末募金で定期的に寄付を続ける。同志社同窓会幹事などを歴任。京都市中京区在住。