ともに生きる [TOMONI-IKIRU]

これでいいのか、老老介護の結末

2025.12.22

  • コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

立命館大名誉教授 津止 正敏

 老老介護の極みのような事件報道が相次いだ。

 先月25日、東京都町田市で79歳の息子が「介護疲れ」を理由に100歳の母親を殺害したという事件がおきた。先月17日には、昨年7月に東京都国立市でおきた102歳の母を殺害した娘(71歳)の裁判。介護負担が対応能力を超えたことで起きた事件ゆえに、と執行猶予付きの判決となった。検察は控訴せず、とした。

 この種の事件が起きる度にいつも思うことがある。加害者に「執行猶予がつくかどうか」が、まるで裁判の争点にあるかのように扱われ、先の国立市で判決もそうだったが、判で押したようにほぼ「懲役3年執行猶予5年」となる。なぜだろう。介護殺人の場合「介護疲れ」「孤立」「将来に悲観」など分かり易やすい動機が示、される場合が多く、それらについて深く掘り下げた審理がなされることはほとんどない、という識者もいる。量刑判断における詳細な判決前調査と情状鑑定の課題だ。だから、定型の判決となるのだろうか。

 罪は許されないが、介護の労を考えれば仕方がない、ということだけですまされるならば被害にあった人も加害に至った人も、決して救われることはないのではないか。何より今も介護する・されるさなかにいる数百万人の人がいることを思えば深刻だ。

 あの家族の10年以上にもわたる介護生活は何だったのだろうか? 介護の結末はこれでOKですよ、と社会のお墨付きを与えるようなものと感じるのは私だけだろうか。介護はこうした不幸な事件を生み出す諸悪の根源・宿命かのような貧しい介護観を社会に蔓延(はびこ)らせていく危うさもある。

 執行猶予の是非を言いたいのではない。なぜこの事件は起きたのか、予兆はなかったのか。こうした事件を二度と起こさないために何が必要なのか。真に裁かれるべきものは何か。すぐにもさまざまな問いが浮かぶが、解く責任は司法だけでない。あの事件を他人事だとは思えない、と胸の奥底で呟(つぶや)いている私たちにも問われている。

つどめ・まさとしけ氏
1953年、鹿児島県生まれ。立命館大学教授。大学院社会学研究科修士課程修了。 京都市社会福祉協議会(地域福祉部長、ボランティア情報センター長)を経て、2001年から現職(立命館大産業社会学部教授)。2009年3月に「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」を発足させ、事務局長を務める。著書に『ケアメンを生きる-男性介護者100万人へのエール-』『男性介護者白書―家族介護者支援への提言-』、『ボランティアの臨床社会学―あいまいさに潜む「未来」-』、『子育てサークル共同のチカラ-当事者性と地域福祉の視点から-』など。